「21世紀の働き方」への思い

 一昨日の夜、ある開発会社の創業社長さんと5時間にわたって話しをした。

 その会社は、例えば自動車の速度メーターを背後から照らし出す光源などの開発会社で、日本の自動車メーカーの40%以上のシェアを持つ中小企業だ。安全性にも関わる特殊な部品なので、不良品の発生率が極端に低いことや、耐用年数が非常に高いことが強みになり、日本だけでなくアメリカのビッグスリーなど大手自動車メーカーの信頼を長年にわたって獲得している。

 そうした製造開発メーカーの存在は、日本の消費者にほとんど知られていないが、彼らは間違いなく日本経済を支えている。以前、証券会社の取締役と話しをした時、現在、日本の株式市場は低迷しているが、世界でもっとも活気を呈しているのはロンドン市場であり、ロンドンに集う投資家が注目している日本企業は、消費者によく知られた企業ではなく、部品などにおいて高い技術をもって世界の様々な企業のニーズに応えられる企業だと言う。

 その理由について、一昨日の社長との話しで、なるほどと思えることが幾つかあった。

 例えば、“電気”というのは、20世紀の産業を語るうえで欠かせないものだ。最初、“電気”が日本に入ってきた時、まず、“発電機”という産業が必要だった。それを最初に手がけたのは日立だそうだ。そして、“電球”は、東芝が始めた。どちらも、当時は大きな資本投下が必要で、大資本の会社にしかそれをやることはできなかった。東芝は、電球のランプの部分とソケットの部分の両方を独占的して大きな利益をあげることができた。「光る、光る東芝・・・」というコマーシャルソングのように、東芝=“明かり”だったのだ。

 そうした大資本の分野に個人で敢然と参入したのが、有名な二股ソケットを開発した松下の創業者、松下幸之助だ。今思えばあまりにも単純な複数ソケットが、当時は画期的だった。ソケットの部分から参入した松下は、電球の方にも進出し、「明る〜いナショナル」なんてコマーシャルをやっていた。

 松下と東芝は、“電気”を日本国中に広め、消費者をサポートするため、日本全国に専門の電気店ネットワークを作り上げた。その販売網を強みにして、二強になった。その頃から、“電球”は大手企業が行うが、ソケットの部分は、開発会社が行うようになったらしい。というのは、“電球”は、規格品を大量生産するので、大資本の合理的生産の方が競争力がある。しかし、ソケットの部分は、使われる場所によって様々な工夫が必要になるので、小回りの利く小さな開発会社が、それぞれ自分たちの得意領域を発展させる形で技術革新が続けられてきたのだ。自動車とか、オフィスとか、店舗とか住居専用とか・・・・。

 大手企業は、下請け企業としてそうした製造会社を抱き込んでいったところもあるが、私が話しをした会社の社長は、特定の企業との隷属関係にならず、複数の大手電気会社と共同開発をするというスタンスを取り続けた。技術があるから、それが可能になる。技術があっても、“安定供給”などという甘い言葉に騙されて、大資本との隷属関係になってしまうと、相手の都合の良いように支配され、といって他社と新たな関係を作ることもできず、その構造から抜け出すことは難しくなる。

 そして、近年、かつてのビジネスモデルが、ドラスチックに変化をした。

 家電量販店が続々とできて、町中の電気店で買う人が減少した。全国の電気店販売網を武器にしていた大資本会社にとって、そうした細かなネットワークが、逆に重荷になってしまう事態となってきた。さらに、規格品の大量生産というのは、技術的にある水準まで達してしまうと他社と差別化できなくなるから、必然的に価格競争になって利益が出なくなる。それでも、他社との差別化のためには莫大なコマーシャルを打つしかない。コマーシャルのお陰で世間では有名にはなるけれど、そのコストと薄利によって、益々利益が圧迫される。

 そうした苦境を打開するために、商品は有名になった自社ブランドで売るけれども、中身は全て労働コストの安い発展途上国で作ったり、他者から仕入れたものでまかなったりする。液晶テレビで世界1のシェアをとったソニー製のテレビは、広告が上手で、かつては高くても売れた。しかし、今では、アメリカでは韓国製品より安くなっているのだ。にもかかわらず、液晶パネルをはじめ、部品は他社のものだから、当然、利益率は低い。(シャープの場合、液晶は自社のもので、そのクオリティが強みだが、シェアを落としたのは、その生産が追いつかなかった為だとも聞く。)

 いずれにしろ、相変わらず、新聞などでは“シェア”が“有名のバロメータ”で、最高の価値のように伝えられるが、その背後には深刻な問題が横たわっている。

 コツコツと自分の技術を積み上げて、働くことにも誇りを持ち、会社もまたそうした技術者を育てることが長い目で自分たちの成長につながるという発想が、大企業において崩れている。

 色々な場所から、できるだけ安く部品を調達し、それを安いコストで組み立て、高いお金をかけて宣伝し、価格競争に勝つために安い価格で販売する。

 「正規社員」ではなく、「契約社員」を主流にする流れも、こうした構造のうえにあるだろう。労働賃金を低くするためだけでなく、大企業にとっては、必要な時に必要な人を集めて、必要でない時には切り捨てるという“フレキシビリティ”が必要という論法だろう。

 家電量販店の増殖、そしてインターネットの発達によって、もはや、個別サービスの価値は見向きもされなくなっている。規格化、標準化の嵐が益々強まり、“個性”は表面上の“デザイン”や“コマーシャル”だけになってしまう。働く社員も、商品も、簡単に他と取り替えがきくような状況に追い込まれて行くわけだが、そのように存在感が希薄で不安定な状態に、人間が耐えられる筈がない。だからかどうかわからないが、光る光る“東芝”は、賭けに出た。

 原子力発電分野に莫大な資本投下を行ったのだ。東芝は、2月6日、英原子燃料会社(BNFL)傘下の原子力大手、米Westinghouseの全株式を54億ドルで取得した。沸騰水型原子炉に強みを持つ東芝原子力事業と、加圧水型原子炉を中心に強みを持つWestinghouseが協力して相互補完関係を構築し、世界トップクラスの原子力グループ形成を目指すのだと言う。

 次世代DVDでの規格競争に破れ、存在感が希薄で不安定な状態での競争地獄に耐えられないと悲鳴をあげているようにも感じられる。

 “原子力”という分野に、開発途上国をはじめ大きなニーズがあるのはわかるが、巨大企業グループが、非常にリスクが高く、結果が出るまでに時間のかかる分野に莫大な経営資源を投下するというのは、まさに社命を賭けることになるわけで、その覚悟は素晴らしいが、グループ社員全体の足並みを強引に揃えさせるというということも、当然、必要になってくるだろう。また仮に、長い時間をかけて自らが蒔いた種を収穫する前に、新たなエネルギーの開発の可能性が発見されたりすると、その芽をつぶす巨大な抵抗勢力になることだってある。それは、経営者のエゴなのではなく、その巨大な組織に所属する大多数の人間を守るためという大義名分になる。

 規格化、標準化の果てしなき競争地獄のなかから脱出して、企業防衛および雇用を守るために大資本がとるのは、そうした大規模な差別化戦略ということになるのだろうか。原子力とか、武器とか。大きな勢力が、エネルギーを分散させている時はいいが、一つの方向に向くと、莫大な力を発揮するが、その分、大きなバイアスがかかり、大きな影響力によって、大きな破壊力になることもある。

 (そのようにして日本企業は、たとえば東南アジアの森林を破壊してきた。)

 それでもなお、大きくて有名な企業の方が、親も友人も知っているので世間体がいいとか、フィールドも広いので大きな仕事ができると信じ込んでいて、就職というのは、大手企業に入ることだと思っている人も大勢いる。

 一昨日に会った社長は、世間では正規雇用が少ないと不満が絶えないが、それは大手企業のことであり、中小の開発企業には求人はいくらでもあると話していた。”電球”は規格品だが、それが使われる現場は益々多種多様になっており、その多彩な現場ニーズに対応できるのは、小回りの利く中小開発会社なのだ。

 そういう会社に入り、時間をかけて自分の技術を高めていき、それを自分のアイデンティティにするという生き方が、カッコいいと思われていないことが、一番大きな問題なのかもしれないと思う。そういう人も少しずつ増えてきているが、マスメディアは、相変わらず、大広告主である大手企業の露出が多い。というより、技術と経験を身につける為には時間がかかるのだが、そうした地道で真面目な取り組みをしている人が、世間から取り残されているような感覚になったり、損をしている気分にさせる情報伝達が多い。他の世界の上辺の華やかさばかり喧伝されて、自分のやっていることがつまらないものに見えたり、”若く楽しい時”をロスしているような焦燥感を与えられたりするのだろう。そのため、時間をかけた下積み生活をできない人も多い。

 正論だが、上辺の華やかさにごまかされないことがやっぱり大事なのだ。製造、メディア、広告といった様々な分野において、名前の知られている会社は、内実としては何もしておらず、その周辺の人々が実際の活動を行っているという状況が広がっている。

 名前の知られている会社は、規格や標準を守るための調整役であり、働く社員自らもまた規格品になって、取り替え可能な存在に陥っていく現状にある。そうした不安定さは、自己保身のために、自分が所属する大組織が組織防衛のために間違った方向に走り出しても、ひたすらそれに従属するしかないという自分を作り出すことにもなる。

 それよりも、世間体とかに関係なく、大きいものに媚びることなく、自分に固有の技術を時間をかけて積み重ねて行く生き方が、長い目で見れば、カッコいい、という風潮が広がればいいのだ。現実に、海外の投資家が注目する企業は、そういう会社だ。パソコンでも、パソコン本体の販売会社ではなく、インテルをはじめ、中身を支配する会社が、力を持っている時代なのだ。

 私が会った開発会社の社長は72歳で、もう引退を考えているが、これまで一度も“接待”をしたことがないそうだ。また、取引先から原価計算を出して欲しいと言われても、出さない。常に、自分たちの値段で取引先に売る。相手の大企業は、その値段に自分たちの利益分を載せて販売するしかない。市場競争が厳しければ、大会社が自分たちの利益を削るしかないのだ。そういうビジネスだから、赤字になったことがない。不況で売り上げが30%も40%も下がっても、利益はさほど変わらないそうだ。小規模だけど、したたかに柔軟に生きている。

 そして、接待はしないかわりに、日頃、世話になっているお礼として、お中元と御歳暮だけは送るけれど、ありきたりの商品ではなく、自分が選ぶ「本」を送ることにしているそうだ。そして、昨年の年末に、「風の旅人」を三冊セットにして、75カ所に送ってくれた。その後、社長は、「風の旅人」の30冊を買って全てを読み込んでいるうちに感激して、今、「風の旅人」の1号〜30号まで全てをセットにして送ることを検討してくれているのだそうだ。その連絡を受けて驚いた私は、いったいどういう人なのか会ってみたくて、連絡をとって私から会いに行ったのだった。