今、社会に起りつつあることについて、思うこと



 

 現在、写真集づくりのために、二つの印刷会社と話をしている。

 一つは、東京に拠点を置く、世間でよく知られた大企業。もう一つは、関西に拠点を置く、あまり知名度の無い企業。

 私が写真集づくりで考えていることは、高付加価値のものを少数だけ作り、金額はそれなりに高くなるが、物の価値がわかる人ならきっと欲しいと思うもの。

 現在、大手出版会社が作る写真集は、できるだけ大勢の人が買ってくれるように、標準的な大勢が好むような、犬や猫のペットをはじめとする無難なもの。しかも、標準的な大勢は、自分だけの強いこだわりで買うわけでもないから、安い価格でないと買ってくれない。だから、作りの粗末なものを低価格で売る。そうすると、ネットで氾濫しているような内容とさほど変わらなくなってしまうので、けっきょくは売れ残るという悪循環に陥っている。そうした流れに乗じたものを、出版界と切り離されたところで生きている私が、真似をする理由がない。

 それはともかく、印刷会社の有名大企業は、少数の高付加価値のものを作る機械を持っていないので、下請の外注に発注しなくてはならないと言う。無名の小さな企業は、「“高付加価値の少量生産”のお考えは、私たちの会社の方針と共通するところです。」と言いきり、そうした物作りの体制を実際に整え、職人の技術もしっかりとしていて、非常に高品質なものを作り出している。

 現在の日本経済は様々なところに歪みが生じていると言われているが、その原因の一つが、この二つの会社の例に現れていると思う。 

 戦後の日本経済は、一言で言うならば、「スケールメリット」を目指してきた。効率よく大量に作ることでコストを下げ、売値を下げ、効率の良い流通システムによって大量に販売するという戦略。その戦略を実現するためには、標準的な物を速く大量に作り出せる大型の機械を整えることが必要になる。そのうえで、消費者が、個々の細かなこだわりを気にせず、作り手側の意図に添った「ある一定の型にはまった物」を素敵だと思わせる洗脳も必要になり、大量のコマーシャルや、メディアと一体化した「流行づくり」の仕掛けが行われた。

 その仕掛けのために、日本のメディア環境は、きわめて都合の良いシステムになっていた。日本は、新聞、テレビ等の各メディア媒体間における資本関係と連携が認められているhttp://www.findstar.co.jp/news/syosai.php?s=200677 という、世界のメディア環境のなかで特殊な国であり、新聞・テレビ間に相互監視機能が働くことなく、強力な結びつきによって、思うように世論を誘導することができたのだ。

さらにそこに“官”が支配する教育行政がくわわる。

 よく知られているように、日本の教育は、“官”が決めたことに添って行われることが当たり前になっている。アメリカならば、分厚い教科書のなかから先生が自分の判断で授業を行い、授業を行わない部分もたくさん残るが、日本では、教科書通り教育しなければならない。「先生が教えていること以外に、自分でやらなければならないことは色々あるようだ」と思う感覚と、「教科書どおりやればいい」と思う感覚とでは、世界に対する心構えがまったく異なってくる。

鶏が先か卵か先かわからないが、日本人の「右へならへ」の体質は、こうしたメディアや官による思考操作の影響があったことは間違いない。

いずれにしろ、一人ひとり、一つひとつの細かな違いは気にせず、「多くの人がそちらの方に歩いていくなら、自分もそちらに歩いていく」という体質づくりを徹底することで、効率の良い生産・流通・販売システムが、きわめて有効に機能した。アメリカで失敗したコンビニが日本で大成功したことも、それと関係あると思う。

さらに、もともと日本には優秀な技術力を持つ“個”がたくさん存在したのだが、戦後社会では、個々の技術よりもスケールメリットの方が上に立ったので、強大な大衆向けのPR・流通・販売力を持ったものが優位を占め、個々の技術は、その下請けにならざるを得なかった。 

そしていったん主従関係ができて、その中で仕事をするようになると、流通と販売を持っていないものは、それを持っているものに依存せざるを得なくなり、それを持っているものの力は、ますます強化される。

こういう例は至るところにある。メーカと部品会社、テレビ局や出版社とプロダクション、農協と生産者・・・。

 かつては、現在ほど流通網や情報網が発達していなかった。個々の生産者が車や通信設備を持つことが簡単でなかった時代は、それらを取りまとめる存在に依存せざるを得なかった。また、一般商店からコンビニに業態を変えた人達のように、日本人の圧倒的多数が宣伝に安易につられ、個々の価値に目を向けなくなると、固有の地道な努力を重ねることを放棄し、巨額のロイヤルティーを払ってでも、有名メーカの知名度や宣伝力に頼らざるを得なかった。  

 流通網や情報網がさほど発達していなかった時代、また国民全体に均質的な価値観を浸透させていた時代は、その主導権を握ったものの下につかざるを得なかったし、それによって、いくばくかの恩恵を受けることもあった。だからこそ、そうした主従関係が日本中に張り巡らされたのだ。

 結果として、日本には、大量に同じものをつくり、流通させ、販売するうえでは、非常に効率の良いシステムが完璧すぎるほど整えられた。

 しかし、ここ数年のあいだに、急速にほころびが生じ始めた。完璧であったがゆえに、

異なる流れが生じ出すと、旧来のシステムにとって、大きな支障となるのだ。

 その理由を、一つあげるとすれば、“均質化への疑い”が、少しずつ広まってきたこと。

 「隣人がテレビを買ったから、自分も買いたい」という時代は、とっくの昔に過ぎた。

 小学校で、「テレビゲームを持っていないと友達ができない、だから買う」という雰囲気のなかで、急速にテレビゲームが普及したけれど、その愚かさに気づく親も、少しずつ増えていくだろう。

 教育に関しては、あまりよくないことだけれども、子供が塾に通うことが当たり前になって、「学校で教えられることが全て」などと誰も思わなくなってしまった。

 もちろん、相変わらず¥家電量販店には人が群れており、誰も規格品を買わなくなったわけではないし、いくらインターネット化が進んだとはいえ、相変わらず、テレビ主体の生活をしている人もいるし、新聞を読んでいる人もいる。

 しかし、かつてのように国民の大半が力道山のテレビ中継の前に群がるような時代ではない。大メーカは、ある一定の規模以上の数量を前提にした効率化システムを発達させてきたので、数量が減ってしまうと、そのシステムは非常に非効率なものになってしまう。

 旅行業なども、かつては駅前店舗を作り続けるという売上拡大路線を走る経営が主体だった。一つひとつの店舗で、運営コストより僅かでも収入が上回りさえすれば、たとえ利益率は低くても、店舗の数を増やすことで全体の利益額を大きくすることができたのだ。

 しかし、この方法だと、一つひとつの運営のための支出が僅かでも収入を上回るようなると、全体の赤字額も非常に大きくなってしまう。インターネットに少しでも顧客を奪われると、それに代わる収益を見つけ出さないと、もともと利益率が低いゆえに苦境に陥る。

JTBが、全国の200店舗を閉鎖することを決めたのは必然の流れだ。

 冒頭に述べた大手印刷会社も、ある一定の部数以上を前提とした機械ばかり備えているため、体質として、個々の異なるニーズに対応しずらくなっている。

 テレビや新聞の広告にしても、その効果がゼロになるわけでもない。しかし、かつてのような効果が得られなくなった瞬間、かつてと同じように高額な金額を支払う意味はなくなる。我が社の旅行部門の場合も、18年前は、大手新聞の夕刊で全面広告を出せば300人くらいの反応はあり、コンピューターで対費用効果を精密に分析し、広告はメリットがあると判断していた。しかし、8年ほど前から、広告一回における反応は30人ほどに減ってしまった。新聞社は、彼らが要求する広告代を前提に体制を作り上げているから、簡単に広告費を値下げすることはできない。だから話し合いは決裂せざるを得ず、年間に20回ほどの全面広告を2回に減らし、その間に他の集客方法の確立を目指し、新聞広告を不要とする体質に切り替えていった。そして、いったん新聞に代わる新たな別のシステムをしっかり整え、それでやっていけると判断した瞬間、もはや従来のシステムとは完全に縁がなくなってしまう。

ある程度、従来のシステムで効果が得られる間は、縁を切ることは難しいが、もはやどうしようもなく行き詰ってしまうと、他の方法を必死に探し求め、探し求めることで、新たな方法を見つけ出すことができる。世界は、そのようにできている。

つまり、従来の既得権勢力が少しずつ力を失っていく傾向にある場合、頭を切り替えて対応方法を変えておかないと、ある瞬間、その力が一挙にゼロになってしまう可能性があるのだ。

 製造の下請けを行っていた技術集団にも、そうした動きが少しずつ広がっている。流通と販売を大手に任せていても、大手の販売不振の責任を押し付けられ、若い未熟な社員に、偉そうな態度でコスト削減ばかり迫られる。これまでは“お得意様”ということで従順になっていたが、そうしたことが限界に来た瞬間、大手に依存することが馬鹿らしくなる。

 今までは作ることに専念していた人達が、自分達で営業も始める。すると大手メーカの管理組織のなかにいた人間達よりも、自分たちの方が、技術も知恵もあることに気づき、顧客のニーズに柔軟に対応できることもわかる。そのようにして、かつての下請け会社が、総合プロデューサー的な存在となって、少量の高付加価値のものを一つずつ作り出していく動きが、少しずつ広がっていく。

 現在は、過渡期だ。流通その他の多くの仕組みが、従来の価値判断やシステムに完全に対応するために完璧に整えられたものであるがゆえに、微弱な変化でも様々な部分で歪みが生じる。しかし、今後さらに従来の価値判断やシステムが衰退し、新たに生じつつある動きが活発していくと、その動きに対応する流通や販売の方法も確立されていくだろうし、既にその兆しもあちらこちらで見られる。

 既存の流通を介さず、生産者が、野菜や魚を、直接、消費者に販売する方法が、様々な所に生まれつつあり、http://www.marche-japon.org/ 、生産者も消費者もハッピーを感じるという構造が少しずつ整いつつある。

 現在、テレビで坂本龍馬が人気みたいだが、あの時代の、下級武士と上級武士のあいだの軋轢と立場の逆転は、今日においては、メディアが大きく報じている政治VS官僚という単純な図式ではない。

 日本の戦後社会を陰で支えてきた、ありとあらゆる部門での“下請け”と、その神輿の上で胡坐をかき、数量や知名度という力を高めることで傲慢な力を行使できた勢力との関係だと私は思う。

 そして、この立場逆転が進んでいくと、有名大企業に就職するための進学競争という構図も少しずつ崩れていくのではないかと思う。

 有名大企業に就職したところで将来にわたって安泰ではないという雰囲気が少しずつ広まり、実力がなくても有名大企業の権威があれば楽に仕事ができる、という状況もなくなりつつある。

 下請けであれ大手であれ、今後、経済の業態がどう変容するか読めず、いつリストラされるかわからない状況になってくれば、いつまでも肩書を頼りにするわけにはいかない。自分個人の固有の力をどう高めていくかが大事になるが、その力も、“資格ブーム”のように、従来のシステムの中で有効だった“力”ではないだろう。その力が、いったいどういうものかを見つけ出すことも含めて、一人ひとりの探索の旅が、必要になるのだろうと思う。