電子書籍の問題は、出版界だけの問題ではないだろうな

アマゾンのキンドルを始めとする電子書籍によって、出版のイニシアチブが、旧出版社から電子書籍側に移るのではなく、個人に移るようになるだろう。

現在、既に名の知られた書き手を、電子書籍と出版社のどちらの陣営が獲得するかという問題は、しばらくの間は重要な戦局になるかもしれないが、長い目で見れば、それは大したことではない。

根本的な変化は、新人の発掘という局面に生じるのではないか。

従来は、出版界が、一種の権威機関となって新人をジャッジする権限を持っていた。

出版界がOKを出してくれないかぎり世に出られないのだから、新人は出版界の方に目を向けていなければならなかった。

電子書籍を運営する側は、権威的な審査の必要性を感じないだろう。とりあえずサーバーに用意しとけばよく、それを必要とする人が、お好きなようにダウンロードするシステムであり、ならば、その守備範囲は広い方がいい。物事の可能性を、事前にあれこれ探るために、権威ある人に審査してもらっても、実際にそれが正しいとは限らない。うまくいかない時の在庫の心配をする必要がないのであれば、とりあえず、多種多様に用意だけしとけばいい。すると、そこから思わぬ掘り出し物が出てくる可能性もあるだろう。

そのようにして、従来の出版界で門前払いを食っている人達も、電子書籍に持っていけば、自分のコンテンツを発表できる場が与えられる可能性が高い。たとえ数百しか売れなくても、電子書籍側は別にかまわないのだ。

現在の書店は、安全パイを狙う出版界のフィルターのかかった、同じようなものばかりだ。それに対して、今後、電子書籍分野から、少数の人のニーズに応える多種多彩な本が次々と生まれる可能性があり、新刊本のロングテール状態となるような気がする。

電子書籍側は、プラットホームを提供するだけで、出版界の権威的審査を必要としないことがわかれば、自分の文章の書籍化を目指す個人も急増する。結果として、新人作家の発掘のイニシアチブを、出版界が失うことになる。

さらに、新聞や雑誌で、「書評」という形式で出版界や新聞が権威的お墨付きを与えるという構造も無化され、電子書籍サイトの中で、ランキング、電子書籍内の書評やレビュー、検索機能で、読者を導くシステムになっていくのだろう。

こうした構造変化は、「出版界」だけの問題ではない。あらゆる場において、コンテンツを提供する個人とコンテンツに触れる個人の間に入り、その流通の権限や影響力を持つことで特権的立場にあった者達が力を失っていき、そのことによって視界がどう変わってくるか、という問題なのだ。

電子書籍、USTREAMのネット中継などによって、様々なコンテンツを相対的に見られるようになると、オールドメディアが提供するコンテンツの内容や、その審査の基準が、いかに偏狭なものであるか、人々は具体的に気づくようになる。

これまで、テレビ、新聞、出版の資本関係が強固で、同じ基準のコンテンツだけが伝えられることによって、日本人の多くは、情報を相対的に見る機会を与えられず、そのことがオールドメディアの権威化にも役立ったし、その周辺に寄生する人達にも、有効だった。

これからは、個人で判断していかざるを得ない時代になっていく。しばらくの間、オールドメディアと、その寄生者は、個人の判断に伴う危険性や不安を扇動し、自分達の権威的立場を必死に守ろうとするだろうが、この流れは戻ることはない。

そして、同時に、個人は、個人で判断するための知恵を少しずつ身につけていく。

たとえば、メディア広告で商品を買う人は著しく減少し、価格ドットコムをはじめ、情報を様々な角度から相対化して眺める方法によって、吟味し、価値を判断するように。

オールドメディア側の人達は、ネット内には不正確な情報が多いと主張するが、オールドメディアや権威筋の情報が、正しいと言い切れないことは周知の事実。

かりに今日は正しくても、明日もそうだとは限らないのだ。

だから、いろいろな情報を眺めながら、絶対の確信と期待ではなく、ある程度の見当をつけて淡く緩く情報とつき合う作法を身につけ、そのうえで、自分の中の感覚を確認していくというバランス感覚を、少しずつ身につけていくことになる。

その感覚が当たり前になった時の仕事や生活のスタイル、そして生き方そのもの、さらには人々の暮らしを支える日本経済が、果たしてどういうものになっていくのか。

それは、これから突然現れるのではなく、既にどこかに始まっていて、まだ公に見えにくい状態なのだろう。