1/15のブログで、地方からの作品を募集したところ、非常にたくさんの作品をお寄せいただきました。深く感謝致します。
そのなかから、幾つかの作品を次号で紹介させていただこうと考えていますが、お送りいただいた作品を、そのまま紹介するというわけにはいかず、これから、その方々と対話を重ねながら、もう少し深めていく努力をしたいと思います。
まずは、その方々にお送りした私なりの考え方を、幾つかこの場に記したいと思います。
作品をお送りいただいたにもかかわらず誌面でご紹介できない方々にも、お一人ずつ理由を述べるべきなのかもしれませんが、これを読んでいただいて、少しでも理由を御察しいただければ幸いです。
(略)
現在、ロシアとかインドとか、現地の人間が撮っている、その国の姿。つまり、標準化されたグローバルのこちら側から向こう側を見るのではなく、ローカルの向こう側から見る視点を、グローバルレベルで組みあわせて、誌面を作っていこうと考えています。
グローバルVSローカルではなく、またグローバルを無視したローカルでも、ローカルを無視したグローバルでもなく、インターラクティブに、グローバルとローカルの垣根を超えていきたいのです。
「地方特集」のように、「ローカル」をカタログのように切り取って並べても、それは「ローカル」ではなく、「ローカル特集」というグローバル側の一方的な視点でまとめられたものにすぎません。ガイドブックがその典型ですが、「地方」を題材にしている多くのものは、その派生にすぎません。
つまり、「ローカル」ということが、意識的に切り取られて見えてくるものは、もはや、真の意味で、ローカルの視点ではないでしょう。
ローカルの視点というのは、こちら側から向こう側を見るのではなく、向こう側から、こちら側が見られるような視点だと私は認識しています。
ですから、場所は、どこでもいいのです。
その場所と、その人の関係性においても、その人から場所を捉えるのではなく、その場所によって、その人が整えられていくようなもの。
私が「風の旅人」をつくるのではなく、「風の旅人」という場と私との関係において、私が整えられていく。読者もまた、「風の旅人」を読むとか見るのではなく、そこに存在する写真とかテキストそのものとの関係において、自分が整えられていく。
そういう意味で、●●さんが書いている文章は、自分を主体にして対象をとらえているのではなく、対象との関係性において、自分が整えられていくという、その時、その場ごとの一回かぎりの関係性が浮かび上がってくるような気がして、私には興味深いのです。
グローバルというのは、ほんとうは一回しかないものを標準化して、固定して、まんべんなく通用するものに強引にしようとして、それを永遠だとみなす。
ローカルというのは、その一回性を、受け入れ、いつくしみ、そこに永遠を嗅ぎ取るスタンスだと思います。
だから、グローバルが方程式のような固定的なものに美を見出すのに対し、ローカルには、はかなさを美に昇華させる力がある。
●●さんの文章、もう少し贅肉を殺ぎ落とせば、ローカルな美が濃くなると思います。
殺ぎ落とすところは、一番難しいのですが、”自分くささ”ですね。
自分という人間をひとまず離れて、もうかなり離れておられるのですが、さらに離れていくと、ローカルという枠からも、もっと自由になる文章が浮かび上がる気がします。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(略)
こんにちは。
写真拝見しました。
写真を見るのではなく、写真のなかから自然と見えてくるものがある時、編集する気持ちが高まってきます。
現在、ロシアとかインドとか、現地の人間が撮っている、その国の姿。つまり、標準化されたグローバルのこちら側から向こう側を見るのではなく、ローカルの向こう側から見る視点を、グローバルレベルで組みあわせて、誌面を作っていこうと考えています。
グローバルVSローカルではなく、またグローバルを無視したローカルでも、ローカルを無視したグローバルでもなく、インターラクティブに、グローバルとローカルの垣根を超えていきたいのです。
そのうえで、今回、●●さんが取り組んでおられる「半島」という概念は、とても面白いのです。
完全な「島」=ローカルでもなく、完全な本土=グローバル でもない領域。
これは、島国に住み、英語の苦手な日本人が、グローバルな世界を相手に、コンプレックスとか、グローバルとローカルのあいだでの意思疎通の難しさに葛藤しながら生きている状況と重なり合います。
そして、私が、今やろうとする「地方の視点」というのは、まさにこのことだと思うのです。
『地方の視点」ということで、「地方」だけを切り取って並べても、地方のカタログにしかなりませんし、そうしたカタログは、グローバルの側だけに立つ者にとって、自分の視点を揺るがせる力になりません。
グローバルの側に欠けているポイントは、「ローカル」という要素ではなく、「ローカル」と「グローバル」の狭間にある微妙な葛藤です。
このあたりを、もう少し書き込んでいただきたい。
一か月くらいかけて、何度か修正していただくかもしれませんが、ブラッシュアップしていくことが必要です。
自分という人間をひとまず離れて、「ローカル」の領域に生きていながら、ひろく「グローバル」に意識を開き、「ローカル」と「グローバル」の狭間の接着剤に自分がどのようにしてなっていけるかを知ろうと奮闘し、実践していこうとする衝動。 その思いが、どのように文章に反映されるか、試みてほしいと思います。
よろしくお願いいたします。
(略)
こんにちは。文章拝読しました。
とても興味深いのですが・・・、●●さんの悪い癖(もちろん、私にもある癖)が出てしまっています。
最後、下記のように強引にまとめていますね。
「生きていく上で絶対的に「確かなもの」。それはつまり、自己というものを永遠に遡っていけるもの、自らのアイデンティティに関わるものといえるのではないか。
●●に限らず、地方にはまだまだその断片がかろうじて保存されている。僕はそれらバラバラになったかけらを、ひとつずつ丹念につなぎ合わせていきたいと考えている。そこから新たなる未来への視点を獲得するために。」
しかし、全体の文章の流れからして、このまとめ方は、自己撞着に陥っています。
本文のなかで、神楽の”奉納”ということに言及されています。私も、まさにそこがコアだと思います。
” 奉納”であるからこそ、永遠に続いていく。つまり、”奉納”というものの性質のなかに、生きていくうえでの”確かな何か”があります。
その確かさは、”絶対的”という言葉を使ったとたん、途切れてしまう性質のもの。そして、”自己というものを遡る”とか、”自らのアイデンティティに関わる”といった、西欧的自我から発する思考特性とは逆ベクトルのもの。
断片を自分がつなぎ合わせるという”意志や目的”の力で行うことではなく、自分の存在自体が、その”つなぎ”となって奉納せざるを得ない全体の縁のなかにあるという感覚から発するもの。欧米的な思考の癖がついた視点から見れば、”バラバラになったかけら”に見えるだけで、実は全然バラバラになっておらず、おそるべきつながりが、そこにあるかもしれないし、実際にあるでしょう。その”おそろしさ”そのものを少しでも伝えられればいいのかもしれません。
また、それくらいの謙虚な立ち位置でないと、見えてこないのかもしれません。
「新たなる未来への視点を獲得するために」という勇ましさは、心のうちにあるにしても、表現という“奉納行為”としてはふさわしくないかもしれない。
自分の知識フィルターを通せば、世界が見えるかのように頭が凝り固まっている人が、忘れてしまっている、奉納のなかに秘められた底深い知恵。
それを取り戻すためには、まずは自分の表現から、“奉げて納めるもの”としての有様を整えることから始める必要があるのでしょう。自戒をこめて。