単純に言いきれない「心」の問題

 最近、朝日新聞などを見ていると、安倍晋三さんをすごくバックアップしているように感じられる。次期の総理として国民の半数が支持しているとか、自民党議員の7割とかが安倍さんを支持しているとかのキャッチコピーが誌面で目立っているし、今日の新聞でも、小泉政権を国民が肯定しているという雰囲気の論調で、一度落ちた支持率が、安倍さんを官房長官にした時から、また上がったとも書いていた。また、安倍さんの公約が、改憲と教育改革であることが、新聞の一面に顔写真付きで堂々と出ている。

 世論など客観的情報に基づく記事であるとのことだが、無意識的に客観的情報を操作しているのではないかと私は思う。

 「国民の半分が賛成!!」という言い方と、「国民の半分が反対!!」というのは数字的には一緒だが、メッセージとしての伝わり方が異なってくる。

 半分と半分の均衡状態であっても、「半分が賛成!!」というアピール力によって、ボーダーラインにいる人がそちらに少しでも流れれば、たちまち、4対6、3対7、2対8と、雪崩を打つように形勢が変わる可能性だってある。

 こういうやり方は一種の擦り込みではないか。多くの人は、どちらでもいいと思っていても、政治家がマイクで自分の名前だけ連呼し、その名前を覚えさせてしまうと、それだけでも選挙を勝ててしまう。既に名の通った有名人を抜擢したがるのも、そうした理由だからだろうし、テレビでも何でも内容に関係なく露出が多ければ、それだけ実力があるように錯覚してしまう。

 なにゆえに、新聞社は、安倍さんを露出させたがるのだろう。しかも、その多くが、顔写真付きだ。

 昨日、日高敏隆さんとお会いして話しをしたのだけど、日高さんは、今日のこの政治的情勢をとても憂慮されていた。

 そうなってしまう原因について二人でいろいろ話したのだけれど、今日の人間の「心」の問題も大きな理由の一つになっているだろうということになった。

 つまり、「心」が、あまりにも物質的に、記号的に語られることが多くなり、そういう科学的説明にうんざりしている人たちが増え、その反動として、極端で表層的な精神主義に流れてしまうのではないかと。

 さらに、合理主義とか、グローバルスタンダードとか、人間の体温を感じさせない機械的な画一主義で恩恵を受けることのできる人は少数で、受けられない人が多数であることがわかり、それらに対する反発から、「美しい日本」とか、「国家の品格」という単純化された言葉が受け入れられている。

 科学的合理主義か大和魂か、英語か日本語か、民主主義か武士道か、という極端な対立概念のなかで、どっちがいいのだ、という選択を強いるような状況。

これまでは、どちらからも距離を置いたポジションというものが可能であったが、どちらからも距離を置くということでは、こうした二極対立を無化する力になり得ないこともわかってきた。

 人間が生きていく上で、とりわけ逆風に晒される時など、どうしても根が必要になる時がある。自分が立ち返る場所を求めざるを得ないのだ。

 ならば、その場所がいったいどこにあるのか。

 安易にその場所を、「日本国」という概念と結びつけるのは、とても危ういことだ。

 私たちは、この国の風土(自然だけでなく文化的、社会的風土も含む)に育ってきたのだから、この風土に特有の奥深い機微を肌感覚に擦り込んできている。それを、日本の心というのなら、確かに、日本の「心」をきっちりと認識し直すことは大事だろう。自分たちの思考や行動の癖は、そこから生じている可能性が大きいのだから。

 しかし、そうした機微は、「大和魂」や「武士道」のように単純化できるものではなく、もっとデリケートなものだ。

 デリケートで難しいゆえに、じっくりと付き合うことが面倒になって、単純化して誰にでもわかりやすいものへと処理されがちだ。

 単純化と共有化という意味では、科学的記号言語も、精神主義も、同じ土俵にあるのだろう。かといって、それらを避けて遠巻きに眺めるだけというのは、両極が均衡状態になる時にはよいが、そのバランスが崩れだしたら、何もしないことは現状の趨勢を肯定していることと同じになってしまうのだろう。

 「うーん、難しいなあ」

 日高さんは、動物行動学者として優れた研究を重ねてきて、リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」の翻訳者としても知られる科学者であるが、要素還元主義の限界を深く感じ、新しい記述を手探りしている。

 「心」を、「心というのは、心だよ」とか一言で片づけてしまうアバウトさのなかに潜む「自分の理解できないものに対する排他性」と、「心の活動は脳における神経回路の電気的興奮と化学的な蛋白質の変化の累積現象」と説明する人の中に潜む、「知識信仰と、生活感覚に対する侮り」のどちらでもなく、「心」を新しい視点で説明することの必要性を強く感じている。

 「難しいけれど、そうしなければならない時代なんじゃないかと僕は思うよ」と日高さんは言っていたが、 これまでやってきたことの上に胡座をかくのではなく、もしかしたら、これまでやってきたことの否定につながるかもしれない領域で、モノゴトを考えている日高さんは、常に新しい。

 12月の「風の旅人」の「OWN LIFE」というテーマで、私は、動物行動学者である日高さんに、人間と動物だけでなく植物も含めた「心といのち」について書いていただくようにお願いしたのだけど、

 「風の旅人で要求されるテーマは、いつも難しくて頭を悩ますけれど、勉強になるよ」と言っていただけた。

 長年、自分の中に蓄積してきた知識を外に出すだけなら簡単なことだけど、そうではなく、ゼロからモノゴトを考えることの大切さ(もちろん、平行して新しい知識を身につけていくことも怠らず)を日高さんのような翁が実践されているのを見ると、とても勇気づけられる。

 と、これを昼休みに書いて、昼食のあとブログに載せようと思ったのだが、今しがた、昼食を終えてビルに戻ってきた時、また安倍晋三さんとエレベーターの中で一緒になってしまった。今回で二回目だけど、なんかとても不思議だ。 

 編集部があるのが永田町なので、政治家と会っても不思議でないのだが、他の政治家とエレベーターで一緒になったのは、お遍路参りに行く直前の民主党管直人さんだけだ。



風の旅人 (Vol.21(2006))

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