未来に向けた履歴書と志望動機

 映画監督の小栗康平さんが、師匠筋にあたる、亡くなった浦山桐郎さんに、

「本質は何度繰り返してもいい、でも現象を繰り返してはいけない、堕落する。」と、かつて言われ、その言葉を振り返りながら、自分の仕事がそうなっていないか気にかけておられると仰っていた。

 やればいいというものではない。やるかぎりは、やっていることに対して責任がある。

 風の旅人を制作するうえでも、同じことが言える。

 しかし、それはいったい何に対する責任なのか。社会的責任とか、抽象的なことを言っても、これだけ価値観が多様化した社会において、責任の形も人それぞれだということになりはしないか。

 同じことをだらだらとやっていれば堕落するということは、やっている本人が一番わかっている。そして、繰り返さなければ伝わらない大事なことがあるのだという(もしかしたら独善的かもしれないが)気持ちも、本人が一番わかっている。

 その心の声というものに耳を澄まし、正直になれているかどうかなのだろう。

 私の恩師である日野啓三さんの本を読み返しても、実のところ、何度も何度も同じことが顔を出す。タクラマカン砂漠とかカッパドキアとか埋め立て地とか深夜の都市のコンクリートとか。

 荒涼とした世界を嘆くのではなく、荒涼のなかを孤高の魂をもって生きる、祈りのように透明で静かな意志が伝わってくる。

 人間の原点を荒野に見る眼差しと言うのだろうか。日野さんは、花鳥風月のような緩やかな自然があまり好きでなかった。どちらかといえば、鉱物のような凛とした寡黙さのなかに、自然の真髄を見ていたような気がする。

 いろいろな物に囲まれて、一見、豊かに見えても、それらの表層に惑わされてはいけない。宇宙は、冷え冷えとした暗闇の静けさのなかに凝縮した一点から始まった。惑いが生じた時には、目に見える様々な夾雑物を殺ぎ落として、その一点を意識を澄ませて凝視しなければならない。

 物と情報が溢れるバブルの時代に、埋め立て地や誰もいない深夜の都市を描いた日野さんを、時代錯誤のように言う評論家もいるが、そうではなかった。日野さんは、バブルの時代だからこそ、宇宙の始まりのような荒涼たる静寂のなかを孤高に生きる覚悟を私たちに促していたのだ。理屈ではなく、荒涼たる世界に宿る目も眩むような美を示しながら・・・。

 「本質は何度繰り返してもよい。現象を繰り返してはいけない、堕落する。」

 日野さんもたぶん同じことを言っただろう。

 「状況説明的なこと」を嫌う保坂和志さんも、たぶん同じだろう。

 「風の旅人」が状況説明的なことになっているように自分で感じる時は、続けてはならない。

「どんなに素晴らしい作品や研究成果も、そのメッセージを受信する人が自分ごととして受け止めないかぎり虚飾の一部として消費されてしまいます。だからそうならないために、客観的な情報提供ではなく、生身の人間としての体験と親交を言葉とビジョンに統合して伝えていくことに注力します」

 風の旅人の創刊の時に、掲載者の方々に送った手紙の内容に反する時が、堕落する時だ。

 しかし、本質と現象の違いについて説明せよ、と言われれば、とても難しい。

 昨日、田口ランディさんの新著についてあれこれ書いたが、あの本に書かれている老人福祉、原発、引き籠もり等は、まさしく今日の社会で、マスコミや学者によって状況説明され、決まり文句のように、「政府は何も具体的な策を出していない」、「政府は何とかしなければならない」、「国民は問題意識を持たなければならない」と結ばれ、このパターンに添って新たな現象が書き加えられていく傾向が強いものだ。

 そのようにパターン化され、大雑把に括られがちなテーマについて、敢えてランディさんは書いている。

 学者の状況説明と、ランディさんが書いたものの違いのなかに、何か大事なことが隠されている。それが何なのか、今朝、通勤してくる時に考えていた。

 たとえて言うならば、(あまりこうした大雑把なたとえは良くないことはわかっているが)、ランディさんの書いているものは、「未来」の採用試験を受けるための、履歴書と志望動機になっているような気がしたのだ。

 少し前までであれば、履歴書とか経歴書は、どれだけ偏差値の高い大学を出て、どういう資格をもっているか、どういうコネがあるか、ということが重視されたかもしれない。綺麗事が多ければ多いほど、採用される。もしかしたら、今もまだそういう傾向が強いかもしれないが、それらのことは、その人自身の本質的なことではない。そういう人事を続けている会社は、次第に堕落していくことは間違いないし、そのような虚飾で自分を飾って、その虚飾を評価する会社に入ることは、堕落のなかに身を投じることであり、数年先に、そのしっぺ返しがあるように思う。

 そうではなく、会社の健全な未来につながる人事を行わなけれなならないと自覚している会社に自分を迎え入れてもらおうと思えば、自分という実態を正直に示すことが大事だ。自分がなぜその会社に入社したくて、その会社でどういうことを行っていきたいのか、その会社がどうなっていけばいいと思っているのか、そのために、何をどのようにすればいいか自分で考えていて、それを人に意見するだけでなく自分が率先してやっていこうとしている意志とか気迫を伝えることが大事だろう。もちろん、絶対にできるという確信は持てないし、やってもいないのに確信するような人は却って信用できない。確信できないけれど、1%の可能性を50%以上の可能性に高めていく気概のようなものを感じられるかどうかが、採用のポイントだ。

 その対象が、「会社」ではなく「未来」になり、「未来」に自分を迎え入れていただくために、履歴書と志望動機を、自分なりの方法で書く。

 ランディさんが書いた、福祉とか原発とか引き籠もりは、そういうものであり、状況分析にすぎないと思わせるものは、「未来」という会社のなかに就職して自分自身が奮闘して会社を盛り立てていくのだという雰囲気が感じられないものだ。

 会議などにおいても、「市場はこうなっているみたいです」と客観的資料を偉そうに示すだけで、自分がその状況を切り開くためのプロジェクトリーダーになるという意志も行動もない人だ。そういう人は、まあ一人くらいいてもかまわないけれど、何人もいたら、その会社の活動は澱み、堕落していく。

 「未来」もまた、同じなのだろうと思う。




風の旅人 (Vol.21(2006))

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