寄る辺なき時代の希望

 「寄る辺なき時代の希望」田口ランディ著(春秋社発行)。

 この本は、ボールにバットを当てた瞬間に手が痺れる、重い直球である。

 球速150km以上の球筋の見えない直球でない。球筋を確認できる球速で、バットにボールを当てることは可能だが、小手先で打ち返してヒットにすることなどできやしない。

 この本に限らず、ランディさんの書くものは、そういうものだ。だから、ランディさんの本を解説している評論やコメントを通して、わかったつもりになってはならない。球筋が見えているから解説することはできる。ネット裏の解説者のように、コースがどうだとか、球種がどうだとか。ランディさんの投げるボールは、コースとか球種はシンプルだから、それだけを説明されると、聞き手のなかにできあがっているパターンの中で処理されて、わかったつもりになってしまう。しかし実際にボールにバッドを当てた瞬間の手から全身に伝わる重みは、バッターボックスに入って打ってみなければわからない。

 このたびのランディさんの新著に書かれていることは、老人福祉、痴呆、引きこもり、原子力問題、水俣……

 言葉だけ並べると、テレビとか新聞とかで、偉い人が、神妙ぶって「今日的な問題」として分析しやすいものばかりだ。

 ランディさんは、偉い人と同じ安全地帯に身を置かない。それらの問題が頭でっかちにパターン化されて語られ、語られれば語られるほど風化していくことに対して生理的な反発と痛みのようなものを感じているから、敢えて、「確固たるヒューマニズム」に揺さぶるをかけている。時に、平和とか人権とか耳障りのよい言葉に異議申し立てをするから、「ひどいやつだ!」と、非難攻撃されるリスクもある。「ひどいやつだ!」と非難されてもいいと開き直って強がっても、対立概念しか生まれないから、そうならないことを願って、異議申し立てをする場合でも、慎重に言葉を選び、構成を練り尽くしている。

 単なる異議申し立てではない。大きな言葉で語られて処理されがちな大事なことを、自分ごとに引き寄せて、自分のなかで再構築して、生き方を再選択するというスタンスだ。

 一般の人に向けて人ごとのように「生き方を変えましょう」と言うのではない。現状に胡座をかいて安心したいという自分のなかにある人間としての本心も晒したうえで、敢えて、生き方の再選択を迫らざるを得ないという立ち位置で、ぜいぜいと喘ぎながら彼女は書いている。

 このたび発行された「寄る辺なき時代の希望」や、つい最近に出た短編集の「被爆のマリア」などもそうだが、ランディさんが自分に引きつけて考えようとしていることが、どんどん広く深くなっている。

 現在、小説家、評論家、ジャーナリスト、エッセイスト、学者など、言葉によって何かを論じることを仕事とする人は無数にいるが、平和とか人権など大きなテーマを、善悪の対立構造のなかで大雑把に示す人や、そういう大きなテーマを自分ごととして感じられない自分に正直になって、敢えてそういうことに触れず、身辺雑記のようなことを主体に示している人が多い。

 後者は、大きなテーマを自分ごととして引き受けられないにもかかわらず、それを主張することの不誠実さを感じているだろうし、前者は、日常的に様々なニュースに触れて知ってしまっているものを知らないふりをして通すことの不誠実さを感じているだろう。

 最近の文学賞受賞作は、世界が身辺のことに狭く閉じていっているし、ジャーナリズムは、パターン化された言い回しによる扇動的なものが多いように感じられる。「人権」や「平和」という頭でっかちになった方が説明しやすいものと、「個人」という生理感覚が分断され、その間をつなぐ言葉が希薄なのだ。

 ランディさんが書いているものは、まさしくその間に位置している。だから、頭でっかちの専門領域の人から見れば、素人の代表選手のように見える。また、「個人」の趣味的な世界に安住したい人にとっては、見たくないものを突きつけてくるわけだから、もしかしたら、うるさい蠅のように感じるかもしれない。

 しかし、自分の生理感覚に正直でありたいと思い、同時に、日常的に触れる様々なニュースに目をつぶることの不誠実さも感じる人は、ランディさんの書くものを必要とする。

 ランディさんは、平和とか福祉とか社会問題を、学問のテーマとして研究活動を続けているのではない。学問のテーマであれば、テーマを決めたところから始めることができる。原子力問題でも、学歴社会の問題でも、ジャンルの一つにすぎない。それゆえ、東大出身の恩恵に甘んじながら、今日の学歴社会の問題を論じるという矛盾行為もできてしまう。学問的研究を純粋な知的行為をみなし、特別な聖域に置くことで。

 ランディさんの場合、そうではなく、自分の生活感覚と現実感覚を伸ばし続けた結果、それがどんどんと広がって、核問題とか福祉とかに至っている。彼女は、学者になろうと思ってそのことを優先して生きてきたわけではなく、小説家になろうと思ってそれを優先して生きてきたわけでもない。「生きるため!」に、いろいろなことをやってきた。

 高校を卒業して、新聞専売所の飯炊きから、ウエイトレス、ホステス、事務員、英語教材の訪問販売員・・広告代理店のアルバイト、正社員、広告会社設立、主婦、インターネットを活用したコミュニケーション・・・、その間に、自殺した兄のこと、死んだ母のこと、酒飲みの父のこと・・など家族との葛藤と軋轢などがカルマのように存在している。

 小説家としてデビューしてからも、それまでのリアリティのある自分の人生を、包み隠さず晒しているから、自分を文化業界の住人だと自惚れている人は、ランデイさんのストレートすぎる球を、「球種が少ない、球が素直すぎる、投球術がない」などといって批判するかもしれない。

 正直言って、彼女の書くものは、近年の文学賞受賞作よりも圧倒的に力があると私は思うのだが、不思議と賞に恵まれない。純文学と大衆小説のカテゴリーなどどうでもよいが、純文学ではなく、大衆娯楽小説寄りのカテゴリーに入れられたりする。

 小説のための小説、学問のための学問、ジャーナリズムのためのジャーナリズムという型式のなかの住人は、異端もしくは素人という評価付けをして安心しようとしている。

 かつて林芙美子が、自分自身を削るような思いで書いたものが、「ゴミ箱のなかのゴミを辺りにぶちまけたような匂いを放っている」と、文士を気取っている人たちに揶揄された。

 林芙美子とランディさんは、時代背景とか社会や個人の抱える問題は違うが、似たところがあるように私は思う。

 林芙美子は、貧乏のことや男と女の苦しみを赤裸々に綴ったが、それは個人的なことをから出発して、当時の世の中の核心にあることに至っていた。彼女の作品を揶揄していた文士気取りは、けっきょくそれだけの器にすぎず、後世に林芙美子ほど名を残していない。

 後世に名を残すことが立派だと言いたいのではなく、本物と偽物は、やはりある程度、時間の経過を見なければ、明確に見えてこないということだ。

 どんなに技巧を凝らそうが、投げる球の重さがないものは、時とともに掻き消えていく。投げる球の重さは、頭で操作できることでなく、”自分に引きつける力”によって増すものだと思う。強い重力によって遠くからも様々なものを引きつけて、その重さに自分自身も耐え難い思いをしながら、渾身の遠心力で放たれるボール。

 それを打つためには、同じように、そのボールを引きつけて、身体全体を使った渾身の遠心力でバットを振るしかない。

 引きつける力が強ければ強いほど、カルマも深くなる。ランディさんは、「カルマ落とし」のために書いている。林芙美子もそうだっただろう。カルマの無い人間などいないのであって、カルマと無関係に書かれている言葉を読んだとしても、その瞬間の気休めにしかすぎず、それは自分にとって、問題の先送りということになる。

 今この瞬間の優しさ(安易さ)がもてはやされるご時世だが、問題の先送りほど酷いものはないということを知らなければならない。政治も、どんな表現も、人付き合いも。



風の旅人 (Vol.21(2006))

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