口琴との不思議な縁

 口琴という楽器がある。枠と振動弁からなるごく単純な楽器で、それを唇ではさんだり、葉に挟んだりして、指でかき鳴らし、口腔の膨らまし方や息の出し入れで音を調整するもので、日本を含め、ユーラシア大陸を中心に、古くから世界中で生活に密着した楽器として普及しているらしい。

 私は、これまでの人生で口琴という楽器にまったく接することがなかった。

 しかし、一週間前、若い女性を取材した時、取材中に突然その彼女がインド性の口琴を私にプレゼントしたいと言い、その前後の脈絡もわからないまま、「有り難う」といって受け取ったのだが、どのように使えばいいのかよくわからないので、そのままにしていた。

 そして、一昨日の土曜日、浅草のアサヒ・アートスクエアで開催されていたアルタイの人気歌手ボロット・バイルシェフの日本公演を、田口ランディさんの紹介で聴きに行った。私は、アルタイ共和国を訪れたことがないが、アルタイ山脈には行ったことがある。日野啓三さんが、生前、「アルタイは人類の霊的故郷だ」とよく話していて、その影響で、アルタイ山脈に行ったのだが、戻ってその報告を日野さんにしたところ、「そうか、あんな遠くまで、遂に行ったか」と感激してくれた。現在、旧ソ連アルタイ共和国に行く場合は飛行機で行けるのだが、私が中国側のアルタイに行った時、北京→ウルムチと飛行機で行った後、自動車で4日ほど走って荒涼たるジュンガル盆地を超えていかなければならなかった。(今では、中国の国内線で、ウルムチからアルタイという町まで飛べるが、アルタイ山脈までは、そこから車で一日走り続けなければならない)。

 アルタイ文化に触れるためには、中国側ではなく、アルタイ共和国に行かなければならないらしいが、確か7,8年ほど前行った時は、そのあたりの事情がわからなかった。でもまあ、国境が引かれたのは最近のことだし、中国側でも、岩壁のレリーフとか妖しいものはたくさんあった。

 日野啓三さんがアルタイを人類の霊的中心と言っていたけれど科学的な根拠も証明もないから日野さんの本には書いていないと思う。あくまでも、私との間で、宇宙のこと、人類の古代のこと、などを話し込んでいた時の話題として、そう言っていただけだ。そして、そのように日野さんが想像する理由として、かつて人類がアフリカから移動してきた時、中近東で東西に一度別れた後、西に行ったものはヨーロッパへ行き、東に移動してきた人たちはアルタイあたりでさらに南北に別れ、北に行く者はアメリカ大陸へと渡り、南へ行く者は、アジアの方に降りてきたのではないかということで、中近東とアルタイ山脈のあたりは、人類の十字路として重要な場所だったのではないかということだった。

 私がアルタイ山脈を訪れた時に驚いたのは、これだけ高緯度で大陸のど真ん中という立地にもかかわらず、予想外に土地が豊かに感じられたことだった。大陸のど真ん中というのは、普通、海から遠いために雨もあまり降らず、砂漠化することが多いと思うが、アルタイはとても緑豊かで、トドマツなどの常緑樹が生い茂っていた。それよりも遙か南方の天山山脈は荒涼とした山肌が剥き出しになっていて、アルタイはそれよりも荒涼としている筈だと私はかってに想像していたのだった。

 アルタイは、冬には氷点下30度〜40度にもなるらしいが、中国側のアルタイは、北海道の風景にとてもよく似ていた。アルタイ共和国は、映像で見ると、緑の草がどこまでも広がっており、その背後に巨大な山塊が聳え、地上の別天地のような光景だ。

 アルタイには伝統的にシャーマン文化が残っているから、やはり霊的な場所であり、日野さんの作家としての想像力は、的はずれでないのではないかと思う。

 話しが逸れたけれど、土曜日に聴いたボロットという歌手の歌は、アルタイの神話をベースにしていて、英雄叙事詩や、自然物との呼応を、魂の底から響く声によって表現するものなのだが、そのなかで、口琴が演奏されている。

 口琴もまた息を介して鳴るわけで、声の一種のように感じられる。

 アンデスフォルクローレをはじめ世界各地に残る民族音楽を聴くと、とても懐かしい気持ちになるが、アルタイ音楽は、それらとは少し異なっている。懐かしいことは懐かしいのだが、ノスタルジックにうっとりとなる感覚ではなく、身体の深いところが呼び覚まされるような感じなのだ。ずっと聴いていたいという気持ちもあるが、聴いているとだんだんと胸苦しくなって、立ち上がって外に出て、身体の底から声を絞るように「わぉぉぉっ」と大きな声で叫びたくなる。

 ふだんあまり意識したことがないが、人間は、他の動物に比べて随分と声のバリエーションがあるように思う。同じ文書でもそれを読む声の抑揚によって、内容の伝わり方が変わってしまうだろう。

 現代社会は、音声言語よりも文字として書き表された言葉(契約書や情報伝達など)の方が圧倒的に重視されているが、人間のコミュニケーションは、最初に音声があって、音声でほとんどのニュアンスは伝わり、文字のような記号的要素は、その音声の上にただ乗ってゆくというのが本来の在り方だったのではないかと思う。

 だから、声の出し方はとても大事だ。声の出し方は、息のしかたであり、息を通した世界との関わり方ということだ。

 そして、息という空気交換は、植物でも鉱物でも動物でも、「いのち」ととても深い関係にある。 

 それで、口琴のことなのだけど、昨日、青山にある「こどもの城」に私の息子の絵が飾られたので見に行ったところ、なぜか、子供が図工する部屋の奧に、「世界の口琴展」が開かれていて、中央アジアケルト文化の色濃いアイルランド、ドイツ、インドなど様々な地域の様々な形や材料の口琴が陳列されたり、口琴を演奏する人々がモデルになった絵画や彫刻が展示されていた。なぜ「こどもの城」に世界中の口琴が集まっているのか、とても不思議だった。

 それより、私は、その前日にボロットのコンサート会場で、ボロットがアルタイから持ってきた口琴を買ったばかりであり、それと先週月曜日にプレゼントされたインドの口琴もあり、なにゆえにこの一週間で、今までの人生で無縁であった口琴と立て続けに縁があるのかが気味が悪いほど不思議で、今こうして書いている時にも、ボロットのCDをかけているのだが、その歌が心身に響いてくる感じも含めて、きっと私は何かに呼ばれていると思わざるを得ないのだ。

 なにか人生の転機になるようなことが、すぐ目の前にあるのかもしれない。


風の旅人 (Vol.21(2006))

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