さびしさが、うまみになる表現

 大阪のシンポジウムの後、京都に滞在した。

 10月の連休のため、京都駅前や市内は観光客でいっぱいだったが、私が訪れた洛北あたりは観光客も少なく、落ち着いた空気が漂っていた。

 比叡山に登ることが目的だったのだが、叡山鉄道で乗る電車を間違えてしまい、途中下車したのが一乗寺駅という宮本武蔵ゆかりの場所だった。せっかくだからと思い、一乗寺まで1kmほど歩いた。一乗寺は大したことがなかったが、その傍の金福寺に芭蕉庵と与謝蕪村の墓があり、しみじみとさびしく、とてもよいところだった。

 そして、そこに刻まれていた芭蕉の句に、とても共感した。


 うき我を さびしがらせよ  閑古鳥


 閑古鳥という言葉は、それだけで寂しいものが伝わってくるが、芭蕉ほどの人が、ただ心情的な寂しさだけを詠むはずがない。

 閑古鳥(郭公、古来、和歌などで、ほととぎすとよむ)が鳴く初夏は、卯の花が散っていく時で、その光景は、さびしいだけでなく、しみじみとうまい光景でもある。

 また、道元の有名な歌で

 

 春は花 夏はほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷やしかりけり


 というものがあるが、この歌を豊かな日本の四季を讃えるものだと解釈する人もいるが、道元ほどの人が、その程度のことを歌う筈がない。

 春の桜や卯の花の散る頃に奔放に鳴くほととぎすは、散りゆく宿命に興趣を見出すものであり、秋の満月や冬の雪も華々しさが一瞬にして欠けたり溶け消えてしまうものであるが、そうした宿命のものに最高の美が現出する。浮き世を悲観するのではなく、その一瞬の美の晴れやかさや清々しさに心遊ばせる境地を、道元は指し示しているのだろう。

 そしておそらく芭蕉も同じ境地にあるのだろうと思う。

 金福寺に行き、芭蕉のことを考えて東京に戻ると、田口ランディさんが芭蕉のことを日記に書いていた。こうしたシンクロが最近よく起こる。

 ランディさんは、「奧の細道」というタイトルのすごさを讃えていた。

 私もそう思う。「奧の細道」って、狭く限られた「場」においてこそ尖鋭化される道なのだろうと思う。

 だから、そのところにいないと、本当の意味で、芭蕉の俳句は芭蕉が感じたように感じとれないのだろう。

 芭蕉が今日のように偉大だと認められるのは、多くの芭蕉研究者が純粋にその俳句に感動しているからというより、芭蕉と同じ尖鋭化された場所まで行った蕪村をはじめとする後代の人が、芭蕉の凄さを正しく理解して、それを伝えてきたからだろう。研究者は、芭蕉の句に感動する以前のところで、なにゆえに芭蕉が蕪村たちに支持されてきたのか、という観点で研究しているのではないかと思ったりする。そうでなければ、芭蕉の句の現代的解釈は、「さびしさ」とか「しずけさ」といった情緒的なものではなく、もっと深遠なレベルに達する筈だと思う。

 芭蕉の句の解釈にしても、いろいろな説がある。いろいろな説があって、やむを得ない。どちらが正しいか議論しても仕方ないと思う。

 「物事のわかり方」=「リアリティ」というのは、その人が生きてきた歴史的背景によって、まったく異なってしまうのだ。

 最近のニュースで、先の戦時中、沖縄戦における集団自決の際に「日本軍の強制があった」とする高校日本史の記述を修正させた文部科学省教科書検定の問題があった。

 集団自決があったする学者もいれば、無かったという学者もいる。だから片方の説だけを掲載するわけにはいかないというのが、文部科学省の答弁だったが、こうした問題に直面すると、「説」というのは、本当にくだらないなあと思ってしまう。見方によって、どのようにも解釈できてしまうのだから。

 「説」よりも大事なことは、「リアリティ」だと思う。

 集団自決に対する強要があった、なかったという説だけを頭で覚えても何にもならない。

 無味乾燥の全員一致の正しい説なんか、便宜上必要というだけだ。全員一致でなくたった一人でもいいから、生身の体験を伝え、その伝えられる内容、伝える時の態度、雰囲気など総合的なものを通して、それを伝えられる側がそれを真実だと感じ、自分の中にその真実を刻み込むことが大事なのだろうと思う。それが「リアリティ」だろう。

 教科書から集団自決の強要があったとする「説」が削られてしまったのなら、教師は、そのたった一人の真実を、何らかの方法で伝える試みをして欲しいと思う。映画でも小説でも、そうした、たった一人の真実の大切さを伝えようとしているものはある。

 教育を教科書の範疇で考えるということは、一般化できる説ばかりを生徒に覚えさせるということにすぎず、そのように当たり障りのない「説」漬けになった状態で、「説」に収まりきらない現実を生きていく力は蓄えられない。

 

 「説」すなわち、「情報」が、目を曇らせ、リアリティから遠ざける。

 「物」や「情報」は、「奧の細道」という尖鋭化された道ではなく、画一化されて退屈な広場にたくさんの人間を放り出し、何かをしなければならないのだけど、何をすればよいのかわからないという落ち着かない気分にさせる。

 芭蕉の境地は、当然ながら物や情報ではなく、流れゆく時間そのものと眼差しが一体化するところにある。そして、その状態こそ、しみじみとさびしい感じの最高の贅沢であることを、伝えている。

 「奧の細道」という尖鋭化されながらも静穏な空気のなかで、身体感覚が研ぎ澄まされ、自我が希薄になる。

 散りゆくもの、消えゆくもの、離れゆくものに対して、浮(憂)いてしまうこと。それは、執心を持つわれわれ人間にとって、簡単には脱しきれないことだ。

 芭蕉もしかり。だから彼は、「さびしがらせよ」と詠む。その「さびしさ」は、無常を潔く引き受ける態度に通じている。そして、その境地が何かしらの形や味わいになる時、さびしさは、うまみに転換するのであって、そういう表現こそ、現代にも必要なのだと思う。