「円形の貯水槽の上に寝て目を閉じる。
宇宙に包まれるという感覚ではなく、宇宙を包み込むという感覚、そのような一瞬は来るのだろうか。
多分、その時は、生きることの不安からも死の恐怖からも解放されるに違いない。
瞼に柔らかな光を感じながら漠然とそう思う。
円の上で交差する。直線的な時間と円環する時間が。
円の上で融合する。日常と非日常の世界が。
草を揺らす風の音。小鳥のさえずり。銃声。子供の泣き叫ぶ声。水面ではじける水滴の音。円の上に音があふれる。
母の声は錯覚だったのだろうか。
日が落ちて、ぼくは起き上がり、貯水槽の上に立つ。
仄暗い中、何もない円を見つめる。」
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この文章は、写真家の普後均さんが、写真集『ON THE CIRCLE』の中にはさんでいる言葉だ。
私の家には数多くの写真集があるけれど、何度も見返したくなるような写真集は、ごくわずかしかない。
『ON THE CIRCLE』は、その限られた一冊だが、この写真集の中の写真は、その一枚だけを取り出して壁にかけて観賞するようなものではなく(それでも十分に魅力的だが)、写真集全体が舞台であり、その舞台の中で、まるで映画のように一枚一枚が欠かせないシーンになっている。
これについて、今、言及しているのは、さきほど書いた小栗康平さんとビクトル・エリセの映画との関係が、ふと頭をよぎったからだ。
ファンタジーと現実を別々と割り切った多くの表現と称するものたちと違って、普後さんの『ON THE CIRCLE』は、その虚構世界のなかで、現実がファンタジー化されている。
虚構世界というのは、「円形の貯水槽」が舞台化されているという意味においてだが、この円形の貯水槽は、映画のセットではなく、現実の事物である。
これは、すごい写真世界だと思う。近年、写真をアートと称して作り物のセットを撮影した虚構表現を行なっている人が増えているのだが、普後さんの眼差しは、そういう偽表現者のように現実から目を逸らすということをしていない。
円形の貯水槽の上の人々は、リアルな現実の中に生きている人たちであり、そのことも十分に伝わってくるが、まるでファンタジーの世界のようでもある。
この感覚は、普後さんが書いているように、宇宙に包まれるという感覚ではなく、宇宙を包み込むという感覚に通じる回路だ。
宇宙に包まれる感覚程度の癒しでは、リアルの現実における本当の救いにはならない。
生きることの不安からも死の恐怖からも解放されるに違いない本当の救いは、宇宙を包み込むという感覚を通してだろうという普後さんの直観は当たっている。
さきほどの映画の話のなかで、ビクトル・エリセは、そこまでの境地には思いいたらなかったのではないか。
普後さんが写真表現において設定した円い貯水槽の輪郭は、まさに、映画におけるフレームと同じであり、そのフレームのなかで、現実とファンタジーを分離させることなく融け合わせること。それは、世間や評論家の評判などとは関係なく、自分自身の魂の救済のためだ。
そして、それだけ、表現における誠実さがゆえの苦悩が深いということでもあり、その苦悩がなければ、たどり着けない境地でもある。
しかし苦悩があれば辿り着けるわけでもない。
これが先ほど小栗康平さんとビクトル・エリセの違いについて書いたことで、芭蕉の俳諧にある「軽みの境地」というべきものであり、これが、普後さんの『ON THE CIRCLE』から感じられる。
常識を脱ぎ捨てるその捨て方に、「軽み」の真骨頂がある。
普後さんは、『Flying Frying Pan』という写真集で、フライパンだけを使って「宇宙」を出現させたのだが、その軽みの境地が、『ON THE CIRCLE』では、人間の現実に向けられた。
この軽みの境地は、自作を次々と脱ぎ捨てていく小栗さんの映画作りにおいても通じるものであり、場面の切り替え方と、その連続で、絵巻物のように現実と虚構を同一空間とすることができる。
その日本文化の軽みの技が、西欧世界における表現の誠実がもたらす垂直的苦悩からの超克になる可能性があるが、小津安二郎を敬愛するというヴィムヴェンダースは、俳諧の軽みにある宇宙を包み込むという感覚に基づく平安ではなく、見たくないものを見ないという軽さ(easy=手軽さ)での心の平静にすりかえて「perfect days 」を作ってしまった。だから、真摯な芸術表現ではなくBGMになってしまった。これは、ビクトル・エリセや小栗康平さんが映画表現において目指すものとは、まるで違うものだ。
普後さんの「ON THE CIRCLE」が、目の付け所と技巧で騙されやすい評論家が褒める類のイージーな現代アート風装いの写真群と違うように。
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