小さな声がつながる”場”

 ここ数日、twitterって、どういうものか試してみた。
 そして、いろいろやれることがわかってきた。

http://twitter.com/kazesaeki

 

 画像も、音も、GPSも送れる。

 まず、親しい友人同士で使うと、とても便利だろう。たとえば、子供が生まれた時、「男の子が生まれた」と書くだけで、友人達のページに最新情報として伝えられる。その逆に身内が亡くなった場合も同じだ。わざわざメールや葉書で押し付けがましく連絡しなくても、かってに近況が伝わる。
 友人でも、数ヶ月まったく連絡を取らないということがあるが、いちいち近況を報告し合わなくても、どういう状況なのか知ることができて、それが何かのきっかけになることがある。
 さりげない連絡網としても使えるかもしれない。例えば、メールとか掲示板だと、「今度、●●に行くけれど、誰か一緒に行く人いない?」という感じで聞くだろうが、twitterだと、「今度、●●に行く。」とプライベート情報のように書くだけで、それを見た人が反応してくれるかもしれない。
 コミュニケーションを、さりげなく行うために、とてもいいのではないかと思う。
 まあ、使い方次第だろうが。

 私が、今、考えているのは、そうしたプライベートの枠組みを超えたことだ。
 例えば、現在、大きな声で伝えるメディアと相性の良い表現者と、そうでない表現者がいるが、後者の活動については、その人の周辺のごく僅かの人にしか情報が伝えられていない。いくらホームページを作って告知していても、それを見る人は、ごく限られているのだ。そうした小さな宇宙が無数にあり、それぞれの宇宙の中に住人が少しずついる。社会の表層に流れる情報は、”大きな声”ばかりで、それが時代のトレンドのように大メディアと相性の良い人たちは主張しているけれど、現実的には、無数の小宇宙の小さな声のガス圧が、少しずつ膨れ上がっている。ビジネスの世界だと、少し前から言われているロングテールだ。少数のベストセラーを当てにするビジネスではなく、特定の人に強い支持を受けているものを無数に集めること。店頭ではスペースの問題があって不可能だが、ネットでは可能になる。
 表現に関する情報伝達において、このロングテールの手法がtwitterで可能なのではないか。
 大メディアは、スペースの限られた店頭と同じだ。だから、文学では「芥川受賞!」、写真では『木村伊兵衛賞受賞!」などと、もはや賞自体の価値が暴落している有名な賞ばかりを前面に押し出すしかない。大メディアで書評が書かれると、その本を店頭の目立つところに置くというように、これまでのビジネスと表現は、”大きな声”に牛耳られていた。
 そうした社会の表層の現象に惑わされることなく、「ロングテール」のなかで、自分のやるべきことを着実に行っている表現者達は、「大メディア」のやり方に不満を感じながらも、それに対抗する術を持たず、「自分のやるべきことをやればいい」と自分に言い聞かせながら、それでも時おり、やりきれない思いに耐えて頑張っている。そうした上質の表現者を、私は数多く知っている。

 小宇宙の住人は、個人として弱くても、それがまとまれば大きな力になる。しかし、これまでは、そのまとまり方が難しかった。
 『風の旅人」という雑誌は、そうした意味で、あまり人に知られていないけれど質の高い仕事をしている人たちの表現を「束ねる」ことで力を強める一つのささやかなサンプルだった。しかし、その「風の旅人」も、”大きな声”で目立とうとする媒体が氾濫する社会の表層のメディア世界のなかで、知る人だけが知っている一つの小宇宙にすぎなくなる。
 私は、この雑誌を創刊した時から、同じような傾向の媒体が現れることを心待ちにしていた。一つだと何なのかよくわからないが、こうしたものが5つくらい現れると、一つのジャンルのようになっていくと思っていたからだ。しかし、私のアンテナの感度が鈍いせいもあるが、7年近く待っているが、なかなか同じような媒体は現れていない。
 それはともかく、twitterを一個人のプライベートとして使うという方法もあるだろうが、小宇宙の集まりの場として使うことを試みたいと思う。
 具体的には、「風の旅人」の写真家達の共有の場にしていくこと。
 「風の旅人」で紹介する写真家は、人物を撮っている写真家であれ、風景を撮っている写真家であれ、ある志向性のようなものがある。その志向性に私が呼応するものだけを誌面に紹介している。世間で注目を浴びているとか、大きな賞を取ったというようなことを、私はまったく基準にしていない。
 その言うに言われぬ「志向性」を、twitterの一つの場に集めたいのだ。
 例えば、twitterの中に、kazenotabibitoという場を作る。そこの書き手は、一人ではない。私が、「志向性」を共有していると感じている写真家に声をかける。また、まだ私が出会えていない写真家が、私に声をかけてくれるかもしれない。風の旅人という限られた誌面のなかでは、その全てを伝えることは残念ながらできないが、twitterの「kazenotabibito」の中で呟いていただくことは可能だろう。
 この「kazenotabibito」の中で、それぞれの写真家が自由に自分の作品を紹介したり、展覧会などのメッセージを書き込んだり、また日頃の自分の活動や考え方について呟くという場を作りたい。
 「kazenotabibito」は、そうした場だから、「おはよう」とか、「ビール飲んでいる」といった類の書き込みはいらない。そうしたネタは、プライベートのtwitterの中で出せばいい。また「kazenotabibito」のなかで、自分個人のホームページやtwitterが存在することも呟けばいい。そうすると、Aという写真家しか知らなかった人が、BやCのことを知り、そのファンになっていくことも、あるかもしれない。志向性を共有しているから、きっとあるだろうと思う。つまり、それぞれ30人ずつくらいファンがいるとすれば、そのファンを一つの場に持ち寄る写真家が100人いれば3000人になるわけだ。その3000人は、別々のことをやっていても、てんでばらばらな数というわけではなく、きっと価値観を共有するところがあり、言葉が通じ合うのではないかと思う。つまり、それもまた一つの濃密な場だ。
 現在、twitterでは、IT系の人のユーザーが圧倒的に多いらしく、IT分野においては、いち早く情報をゲットするために、twitterが有効活用されている。
 それもまた使い道の一つだろうが、私は、「場」を作って行きたい。
「風の旅人」という雑誌もまた、いち早く情報を届けることを目的にしたものではなく、「場」の力で何かを伝えようとしたものであり、twitterでも、きっとそういうことが可能な気がする。
 twitterは、簡単に書き込める。それでいて、ブロック機能があって荒しに合わないところがいい。また、ミクシィのように、閉じたネットワークではないところがいい。ブログのように、そこにアクセスしなければ情報と出会えないのではなく、特定のページにチェックを付けているだけで、そこに書かれた情報が向こうから自分の所に自動的に降りてくるところがいい。
 濃密な場さえ整えば、それに関係する人たちだけでなく、その外につながっていく可能性を秘めているところがいい。
 何よりも、”気楽”なところが一番いい。”いい加減”ということではなく、肩の力を抜いて付き合えることが、きっと、目に見えない壁を超える力になっていくだろうと思う。