twitterについて。

 しばらくは、twitterを主にして、ブログを従にしようと思う。
 それぞれ使い道は違うけれど。
 →http://twitter.com/

 twitterって、最初は、「今、ビールを飲んでいる」とか、”日常の呟き”を書くものだと聞いていて、わざわざパソコンの前に座って何でそういうことを書かなければいいかわからなかった。しかし、先日、iphoneを買って、私でも携帯で簡単に文字を打てるようになって、外にいる時とかに「気付いたこと」、「ちょっと考えたこと」、『興味を惹かれたこと」を、概念化する前の段階で書き止めることができることがわかって、自分なりの使い方ができそうな気がした。
 流れゆく瞬間を、少し止める。しかし、twitterに書き込んだことは、少しだけ定着して、すぐに川の流れのように流れて行く。確固たる言葉として読むのではなく、そのニュアンスの流れを追うような感じが、面白い。
 また、ブロック機能があるから、掲示板などのように匿名人に荒らされないところがいい。
 twitterを有効に仕えると感じたのは、#ユーラシアとか、#風の旅人 とか、頭に#を付けて、#●●●を文中に挿入していると、バラバラに流れゆく言葉を検索によって●●●をグルーピングでき、そのテーマについて書いた内容を、後でまとめて見ることができる。
 自分一人でもこの機能を有効に使えるが、仲間と共通ルールにすると、ちょっとした会議ができる。
 また、「風の旅人」の読者が、自分のtwitterの中で、ふとした時に、#風の旅人と記した上で、要望とか不満とか、興味深かったことなど意見を書けば、それらを、まとめて見ることができる。
 #ソニーデジタルカメラ とかで、いろいろな人が書いて行くと、企業アンケートが公開されることになるのだ。しかし、書き込む方も、誰が書いているかが透けて見えてしまうので、客観的に見てバランスを欠いていると思われる人は、無視されてしまう。
 両者とも、狡いことができない。対話を通して、より良い状態を目指すために「言葉」(情報)を活用する土壌ができる可能性があるのではないかと思うのだ。
 もちろん、「ビール飲んで寝る」みたいな、概念化して体裁を整える前の状態が言葉という視覚的状態となって現れるので、そうしたものに触れることだけでも楽しいという人もいるだろう。
 ブログは、文章を書く時に、”文脈”とか”ニュアンス”で読んでもらいたくても、人によって「定着された言葉そのもの」しか受け取らない可能性があるので、言葉の使い方で神経を使うところがあるが、twitterは、誰しも言葉の洪水のなかでちょっとしたニュアンスを嗅ぎ取っていくという使い方になるので、書く方も脱力できる。

 慎重になって硬く構えるよりも、肩の力を抜いた方が、人の潜在的な力は引き出されやすい。また、その人自身も見えやすい。

 20世紀って、知識も含めて自ら(自我)を武装することと、大きな声が、支配的な価値観だった。「正しさ」もまた、自らの武装につながっていたのだ。新しい展開は、個人も国家も武装解除だ。そして、小さな声のつながりだ。無いようで有る微妙なニュアンスの豊かさを感じ取れる懐の広さと深さを身につけて行くことが、きっと尊ばれるようになる。時代はきっとそういう風に変わって行くのだろうと思う。