“出会い”について

 写真の売り込みの方法で、何となく引っ掛かることがあった。

 手紙と手札サイズのプリントを入れて、プリントには付箋を付けて、「実際のものとは、まるで違いますが、ご参考までに」と、わざわざ書いている。

 そして、手紙の文面では、私に写真を見てもらいたいとではなく、わざわざ、「佐伯さんだけでなく、いろいろな人に写真を見てもらおうと思っています。」と書いている。

 その他の文章内容は、ほとんど自分のことばかりを真面目に説明している。

 不思議だなあと思った。

  

 こうした手紙から伝わってくることは、向き合うべき他者のことは関係ない「自分だけの閉じた世界」だ。

 自分のブログで自分だけの「閉じた世界」をいろいろ書き連ねたりするのは自由だ。たまたま通りかかった人と気が合って、お友達になれるかもしれない。

 しかし、手紙というのは、特定の人を対象にしたものだった筈だ。ブログと違って、手紙を書いてポストに投函する時点で、誰と出会いたいかが定まっている。

 自分のことだけ一方的に書いたり、「ご参考までに」などと車のセールスマンが置いていくカタログのようなものは、他の誰かにそのまま出しても通用してしまうものであって、それは手紙というより、不特定多数のポストに投げ込むダイレクトメールのようなものだと思う。

 最近、履歴書も、ダイレクトメールのようなワープロコピーが多いし、文章の売り込みでも、自分の文章日記を書いているブログへのリンクを、「参考までに」とメールで送りつけてくる人もいる。下手な鉄砲数打てば当たるという心境なのだろうか。

 進学および就職において、数字とか経歴とかだけで人を判断する私達の世の中が、ダイレクトメール的発想を育ててしまっているような気もする。

 数字とか経歴第一主義と、ダイレクトメールやカタログ文化と、ブランド志向は、大いに関係があるだろう。

 出会うべくして出会うという体験がないと、固有の“出会い”がどういうものであるか実感としてわからず、いつまでも、あちこちにダイレクトメールを送り続けるということになってしまう。その先にあるのは、自分にとって大切な固有の出会いではなく、ブランド志向のように、世間の評価軸に擦り寄った関係性だ。

 それは、写真や文章の売り込みに限らず、就職や恋愛を含め、全てに言える。

 出会いの障害になっているもの。その一つは、「いろいろな人に見てもらおうと思います。」の、「いろいろな・・・・」という分別だろうと思う。

 世の中には絶対的に正しい一つの答はないという理由で、「いろいろな・・・」スタンスをとることが賢明であると私達は教えられている。

 とりわけ客観的分析を大切にする学者や評論家のスタンスは、そういうものであり、この社会は彼らの思考操作の影響をとても強く受けている

 しかし、他人はともかく、自分の中の真実は、それほどまで「いろいろな・・・」という状態なのだろうか。

 他者と出会う時、「これは!」と信じられるような感覚があるとすれば、それは、自分のなかの真実が、「なんでもあり」ではなく、ある種の志向性を持っているということなのだが、その感覚が乏しいから、「いろいろな・・・」になってしまうのだろう。

 「風の旅人」もまた、いろいろある雑誌のなかの選択肢の一つにすぎない。それは、その人の感じ方だから仕方ないし、風の旅人がその程度のものにすぎないということでもあるが、出会いを求める手紙において、「あなたもいろいろな選択肢の一つにすぎません」という態度を取ってしまうと、出会いの可能性がますます遠くなることは、少し考えればわかりそうなものなのに・・・と私は思う。

 私は、写真にしろ言葉にしろ、”出会い”の媒介だと思っているので、そうしたスタンスの人が撮る写真や文章に興味を持てない。

 似たようなものが溢れ、「これは!」と思うことがとても難しい社会のなかで、「これは!」と思える状態になるには、自分にそれだけの準備が必要なのだと思う。

 物事を見極める力は自分に属することであり、それがなければ、社会がどういう状態であれ、「これは!」にはならない。

 「これは!」という衝動のないまま生産される自己表現が溢れかえることで、ますます、視界が濁り、”めぐり会い”が遠のいていく。