消費の発想からの脱出

 ある人から、次のような言葉を投げかけられた。
「 無数の回転している球があり、それぞれに凹か凸が1つだけある。そして、ある球の凹に合う凸を持った球が1つしかないとしたら、凹凸を合わせるために、回転の速さを上げることは、決して悪いことではない。」

 私が、写真の売り込みなどで、「出会い方」に言及していることに対して疑問を感じる人が書き送ってきたレトリックだ。
 この種の考え方は、今日の社会において、写真の売り込みにかぎらず、例えば就職活動などにおいても多く見られる。
 何十社もワープロ打ちの志望動機と履歴書を送れば、どこかに引っ掛かるかもしれない。自分の何をどのように評価してくれるかは相手次第であり、自分にはわからない。だからとにかく、あちらこちらに球を投げるというものだ。
 私は、これが間違った考えだとは思わない。そういう”社会”なのだろうと思う。そういう風に”教育”を受け、そういう風に、テレビを初めとするメディアに教えられてきているのだろうと思う。
 これじたいは、間違っていることだとは思わないが、”その前にすべきことがある”ことについては、誰も教えてくれない。
 例えば、鉋を上手にかけることができないまま、家を建てようと思ってもうまくいく筈がない。
 そのことは理屈では知っているが、では「鉋を上手にかけること」が、具体的にどういうことかを知っていないケースが多い。
 どんな物事にも準備が必要だろうが、「技術」や「情報知識」程度のことが準備だと、知らず知らず思っていることが多い。
 物事に凹凸があることはわかっていても、凹凸の形にしか目がいかず、組みあわせるためのスケールの違いや、材質そのものの違いに無自覚なことがある。
 学校では、凹凸の形を変えることを教えてくれても、凹凸のスケールや材質を変えるために何をどうすればいいか、なかなか教えてくれない。
 近年、メニューの種類には凝っているけれど、味が大雑把で繊細さをまるで感じない店が増えた。そういうものはすぐに飽きる。飽きやすいものと、そうでないものの違いに無頓着の人が大勢いるから、そういう店も多くなる。店に限らず、雑誌もそうなのだろう。だから、作品の売り込みにおいて、凹凸を合わせるために回転の速さを上げるという発想になる。
 しかし、普通に考えればわかることだが、サイクルの速い社会に自分の凹凸をうまく合わせるために回転を上げなければならないという発想は、たまたま合うポイントがあっても、結果的に、速いサイクルのなかで次のものと交代し消費されやすい存在になることに等しい。
  ならば、自らの凹凸を社会とうまく合わせながら、速いサイクルのなかで消費されず、飽きにくくなるための方法は、あるのだろうか。
 その方法を理屈で考えてもわからない。そういうものは決して多くはないかもしれないけれど、社会の中に存在する。それらを見つけだし、その近くで様々なことを噛みしめながら、秘訣を掴み取っていくしかないのだろう。
 そうしているうちに、凹凸の形だけでなく、質やスケールの違いがわかるようになり、それがわかるようになって初めて、自分の視点も、ステレオタイプではなくなるかもしれない。その自分の視点こそが、固有の自分をつくりあげていく要の力であり、簡単に消費されない自分のための第一歩なのだろうと思う。