相手にだけ、誠意や親切やマナーを要求する傲慢

 日曜日の今日、編集部で仕事をしていると突然電話がなったので出ると、「おたくの雑誌は、どういう写真を掲載するのかなあ」と、女性が唐突に横柄な口のききかたで質問を投げかけてきた。相手の正体がよくわからないので、「どういう写真って、どういうことでしょう」と聞くと、「いや、有名な人しかだめなのかなあと思って」と言う。「有名とか無名とか、中身を見ればわかりますけど、いろいろですよ」と答えると、「ぱらぱらっとしか見たことがないから」と言う。読者じゃないことはわかったので、「写真の売り込みですか?」と確認すると、「写真を見てもらおうと思っているのだけど、やっぱり旅の写真とかかなあ」と、相変わらずご立派な言い方をする。こっちも忙しくて休日出勤しており、ダラダラとした会話に付き合いきれないので、「自分で中身を見ればわかりますから」と言うと、「不親切だ」と言う。頭にきて、「自分で中身を確認してからにしてください」と言って電話を切ると、また電話がかかってきて、「あなたの名前は何て言うの?」と、自分は名乗らずに、偉そうに聞く。隠すことは何もないので、「編集長の佐伯ですけど」と答えると、「ふーん」と、これまた偉そうな言い方をする。

 これに似た売り込みの電話は実によくある。これはいったい何なのだろうと、電話を切った後も、厭な気分が残る。

 そして、この厭な気分はいったいどこから来るのだろうと、私は考えてしまうのである。

 名前を名乗ってしまったから、相手がもし陰険な人間であったら嫌がらせをする可能性もある。実際に、私のことと「風の旅人」の悪口を匿名で書き連ねるブログも存在する。

 でも、私は、そういうことは、あまり気にしていない。もちろん、子供や家族に危害が及ぶようなことがあれば問題だが、それ以外のことでは、私はどんな権威とも関係しておらず、人間と人間の信頼関係だけで仕事をしているので、誰にも妨害されることはないと思っているし、たとえ陰で誹謗、中傷されることがあっても、実際の「風の旅人」を見て判断してもらえればそれでいいという気持で制作している。 

 だから、厭な気持というのは、私の仕事に支障があるからということではない。

 顔を見たこともない相手だから、その特定の相手が憎いとかそういうことでもなく、そういう態度の温床になっている何ものかに対して、やりきれない気持になるのだ。

 彼らは、自分の都合に相手を合わせさせることを当然のことのように考えていて、それを傲慢だとも失礼だとも思っていない。また、義務を果たさずして、権利だけを求める。相手に敬意を払える人間であってはじめて、相手からも敬意が払われるのに、相手からの敬意や親切だけを求める。

 そういう自分が正義のようになっている。だから、「あなたの名前は?」となる。名前を聞いて、上司を呼び出して「社員教育がなってないわよ」とでも訴えるつもりでいたのだろう。そして、そういう風な脅かしが効果的であると知っているのだろう。

 この種の苦情は、学校や、企業のクレーム処理担当や、新聞やテレビなどにもネチネチと送り届けられる。その際、女王様を相手にご機嫌ととるような対応ができなければ、対応が不誠実だと怒り狂う。学校も企業も、そうした消費者様に極端に神経質になっている。この種の傲慢な“正義”は、至る所にある。相手に誠実を求める人の、自分を省みることのない自信に満ちた態度に出会うたびに、私は不吉なものを感じる。

 屋久島に行った時も、ガイドがたくさんいて、観光客を引き連れて先生のような顔で歩いている。聞くところによると、都会から屋久島に観光に来て、にわかエコロジストになったガイドをやっている人が多いらしい。なかには優秀な人もいるだろうが、ほとんどのガイドは屋久島の生態について細かく知っているわけではなく、観光客を連れて、森の中を行き来するだけだ。別にガイドなんかいなくても歩ける道だけど、そこまで送り迎えする車も合わせてパッケージ化することで、屋久島の自然を商売にしているわけだ。それはそれで構わないのだけど、そんな彼らが、ガイド無しに歩いている私たちがちょっと登山道から外れて樹木に手で触れるだけで、厳しく注意をしてくる。「そこは登山道から外れていますよ。苔を傷めますよ」などと。

 自分たちが歩いている道の苔は踏みつけても構わず、道から少しだけ外れた苔は傷めてはいけないと、あくまでも自分の論理のなかで、人を批判する。注意するにしても、自分も人に注意できるような立派なことをしているわけではないけれど敢えて言わせていただくという謙虚な感じではなく、自分は正義の側にいると信じ込んでいるような態度なのだ。自分を疑うこともないから、逡巡することもない。相手の行為の程度問題で判断するということもない。その辺にゴミを投げ捨てているわけでも、歩き煙草をしているわけでもなく、道から3mほど外れていたり、石の上に腰掛けているだけなのに、先生が生徒を叱るような態度をとる。

 屋久島の自然は、過酷な生存環境で生き残ってきたからこそ、強く美しい。もし、人間の関与でそれが損なわれるというのなら、登山道から3m離れたり、石の上に腰掛けることそのものが原因ということではなく、人間が入り込むことじたいに問題があるということだろう。とりわけ、私も含めて大勢の観光客が入山することに問題があるということだ。ならば、その大勢の観光客を商売にしているガイドが一番悪質なのだが、彼らは、自分たちは観光客にマナーを教える先生の立場のようなものだから悪くないと、心のどこかで信じ込んでいるようなところがある。  

 現在社会は、アメリカが悪い、政府が悪い、学校が悪いなどと、自分の外にだけ悪いところを探し、自分そのものを変えようとしない傲慢な勢力が少しずつ広がっている。

 人に誠意を求めるのなら、まず最初に自分が誠意を見せる。人にマナーを求めるなら、まず自分がマナーを侵していないか内省する。人の親切を求めるなら、その人の親切を受ける資格が自分にあるかどうか考えてみる。

 民主主義というものが、いつのまにか、権利意識の固まりのようなことになってしまっているが、人のことよりも、まず自分を何とかすることが先決だろう。

 私も未成熟なところがあって、敵を作らないように大人の振るまいをすればいいのだが、どうしてもそれができない。

 突然、私の領域に入り込んできて、「あなたのためよ」という高慢な顔つきで言いたいことだけ言われて、「はいそうですか」と、微笑みながら言える自分ができていない。

 はいそうですか、と言えなくても、やんわりと注意できるような冷静ささえ保てれば、厭な気分にならず、気持ちの上でも相手よりも優位に立てるのになあと思うのだけれど、なかなかそうはできず、相手の土俵にわざわざのぼってしまい、応酬してしまうことが多い。反省。


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