自由の闘いというより、権利の防衛。

 昨日のブログに書いたフランスの週刊誌シャルリエブドは、その後、瞬く間に売り切れて300万部から500万部に増刷することになった。
 もともと5万部程度を発行する週刊誌が、今回のテロの標的になったわけだから、私のようなちっぽけな媒体を運営している者も、表現の仕方によっては暴力の標的になる可能性もゼロというわけではなく、自分自身の問題として引き受けざるを得ない。いきなり乱入してきて、銃で撃ち殺されてしまうというのは、めちゃくちゃな話だと思う。
 しかし、だからこそ、「表現の自由を守る」ということに対して、委縮ではなく、慎重に物事を考えて物事を進める必要があるのだと、自分を戒める気持ちになる。
 昨日、仏芸人が、「今夜はシャルリー・クリバリのような気分だ」とFacebookで表現しただけで警察に拘束され、裁判にかけられることになった。
 「宗教を揶揄(やゆ)することはフランスでは禁じられていない一方で、テロを擁護する行為は他の事件を誘発するという理由で禁じられている」からだそうだが、宗教を揶揄することが他の事件を誘発することにつながるという考えを排除しているという、二重基準になっている。
 大きな声で主張する自由は、そういう二重基準が多い。
 そういう二重基準を批判しても変わらないだろう。フランス国家も、テロに対してナーバスな状態だから、そういう措置をとることは自然なことなんだろうと思う。しかし、相手もまた、ナーバスな状態であるということを想像し、配慮する必要があるのに、なぜそれをしないのだろうと思ってしまう。どこか横暴で傲慢で、相手を見下す心情があるからではないか。
 そういう意味で、今回の出来事は、「表現の自由を守る」などと自由という言葉が使われているが、自由をめぐる問題ではなく、権利(権益)をめぐる問題なのだ。
 「自分が獲得しているものを自分が自由に使う権利」が、どこまで認められるかという問題だと私は思う。
 そもそも自由は、「自分の好きなことをやる」ではなく、「自分の尊厳を守る」ための生き方の問題だった筈だ。
 この部分を抑圧され奪われてしまうともはや人間として扱われているとは思えない、耐えられない、許せない、認めたくないという悲痛な叫びが、根底に横たわっていた筈だ。
 庶民はパンも食えないのに、ルイ王朝は贅沢極まりない生活を送っているという、同じ人間としてこの違いは受け入れ難いという叫びから、自由への道は始まった筈だ。そうすると、200年の歳月を経て、現在、差別と抑圧のなかで貧困のなかにある人びとが決死の闘いを仕掛けているとも言え、それもまた自由を求める闘いということになる。
 しかし、今を生きる私たちは、200年前の人達よりも歴史的に多くを学んでいる。尊厳をかけた闘いというものは、局面が変われば、別の尊厳と尊厳の違いによって何度も何度も軋轢や闘いを生む。
 大脳をふるに活動させることが特質である人間だから、葛藤や軋轢がないという状態はありえない。だから尊厳と尊厳のあいだに軋みが生じるのは仕方が無い。フランスという国は、そうした軋みに苦しみ、いくたびかの闘いを乗りこえて、歴史的に自由を獲得してきた。そのことはわかる。
 しかし、闘いを重ねてきたのであれば、闘いによる痛みも多く知っている筈で、闘い方を洗練させていかなければならない。
 闘い方の洗練がストップしてしまっているとしたら、どこかで自由のための闘いが、権利(権益)を防衛する闘いに成り下がってしまったからだ。
 権利(権益)ではなく、本当に自由の為の闘いなのであれば、思慮のない闘いそれじたいが人間の尊厳を激しく傷つけてしまうことを二度にわたる大戦などを通して学んでいるのだから、人間の尊厳の為に、軋轢や摩擦を緩和させる方向へと努力していくことが、新しいステージに相応しい思慮深い闘いということになる筈だ。
 とりわけ人びとに何かしらの影響を与える表現に携わる者は、闘いを煽って闘いをより激しくする方向に導くのではなく、緩和させ、痛みが小さくなる方向へと導く義務があると思うし、その義務に努めてこそ、表現を持続していく権利も守られる。
 今という変遷の激しい歴史的段階は、既得権益の上にあぐらをかいて思考停止になっていられるような状況ではない。
 思考停止状態になって、世間の流れ、その時代その社会で正当化され正面きって反論しにくい言説に迎合するのは、自らが備えている大脳活動を抑制してしまっているということにおいて、自らの尊厳を放棄していることだと思う。
 そして、これからの歴史的段階は、自由という美しい言葉で偽装した「権利」の主張や濫用ではなく、尊厳と尊厳のあいだの軋轢や闘いをどう緩和していくかという調整の段階にあることは間違いないだろう。
 自由という名の権利は、自由という名の権力につながる。権利や権力は、一方にとって都合のいいものであって、それを守るために時には二重基準にならざるを得ず、相手にとって承服しがたいものであるということがまったく考慮されることないので平行線を辿るしか無く、その緊張感が増大すれば激しく衝突して双方とも大きな傷を負ったり、強者が弱者を徹底的に痛めつける結果が眼に見えているからだ。
 自由とか正義の声が大きくなる時は、背後に権利と権力が悪霊のように取憑いているので、戦いが激しくなることは近年の歴史が証明している。


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