第1189回 あの写真の「封印」を私は解いた! ???

 このインタビューを読むと、私が、「MINAMATA」の映画を見て、きな臭く感じたことの理由が伝わってくる。

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 北野隆一さんは、MINAMATAの映画の中に、これまで封印されていたはずの入浴シーンの写真が出てきたことに疑問を持ち、その真相を知るために、インタビューを行なったようだ。

 撮られた側の権利と撮った側の権利の問題とか、そういう抽象的な話は、今回の MINAMATAにおける問題とは関係ない。

 なぜなら、あの入浴シーンの写真は、ご両親が、これ以上、世の中に出してほしくないと依頼して、それに対して、アイリーン・スミス氏が、誓約書まで書いて封印されていたものだからだ。

 上村さんのご両親は、ユージン・スミスの熱意や人柄に打たれて素朴な気持ちで撮影に同意しただろうが、あの写真が評判になって、公の場での露出が増えてきた時、最初は、戸惑いながらも、みんなのお役に立てるのならば、という気持ちだったろう。それがあまりにも過剰になれば、さすがに、もう勘弁してほしい、という気持ちになって当然だ。自分が親の立場なら、そういうことは想像できる。

 そのご両親の気持ちをくんで、あの写真を封印したのだから、今回のインタビューでは、なぜアイリーン・スミス氏が、この写真を世の中に出そうと思ったかではなく、なぜ、ご両親の意思を確認することなくハリウッド側に写真使用の許可を出して、ご両親には事後承諾になったかを、きちんと説明すべきなのだが、そのあたりが説明されていない。

 「あの写真の封印を私は解いた」などと、自分かってな判断と立場で、やるべきことではない。

 しかも、アイリーン・スミス氏は、映画の試写を観て、本物の写真を使った方がいいと判断したと言うのだが、試写を観たということは、あの撮影シーンの流れ、アイリーン・スミス氏が、智子さんの手や足を動かし、モデル撮影のようなポーズを作り、手を負傷したユージン・スミス(史実とは違っている)に代わって、彼女がシャッターを押すという嘘の状況設定も見ているということだ。

 それに対して、彼女はこう答えている。

「約束を守らなかったことになるのは承知しています。ご両親には申し訳ないと思っています。傲慢(ごうまん)と思われても当然です。私には映画の内容はコントロールできません。だからこそ映画で実物を見せるのが大切だと思いました。『この映画に実物の写真がなかったら、再現映像だけが現実であるかのように世界に広まり、一生後悔する』と考えたのです」

 彼女は、そのように言うが、映画監督から写真使用の話があって試写を観るためにロンドンに向かうわけだが、上村さんに連絡をとって意思確認をすることはいつでもできた。しかし、それを行わなかった。

 彼女は、再現シーンが世界中の人に観られることより、本物の写真を観てもらった方がいいと判断したと言うのだが、ならば、写真撮影のプロセスにおける欺瞞を、世界中の人に観られてもいいのか、という疑問も生じる。

 ユージン・スミスが暴力によって手を負傷するという嘘の状況設定を作り、アイリーン・スミス氏が大きく関与して撮ったという嘘の状況設定をさらに作った後に、本物の写真を入れるというのは、映画を観る人が、あの入浴写真は、アイリーンスミスが撮ったかのように(もしくは、大きく関与して撮られたと)印象付けることにつながる。

 試写を観ていれば、当然、そのくらいのことの判断はつく。

 にもかかわらず、この映画の話が出た時、

水俣のことを再び世界に伝えるチャンスだと思ったと同時に、間違って伝わってしまうのでは、と心配しました」

と語っている。

 あの写真に関しては、間違って伝わるのは嫌だけれど、それ以外は、間違って伝わってもかまわない、という判断は、おかしいし、きな臭い。

 これまでにも書いたが、アイリーン・スミス氏がユージンスミスの水俣行きのきっかけを作ったという状況設定も、ユージンスミスが、チッソが隠していた水俣病の証拠を暴いたというストーリーも、史実が歪められた嘘だ。もちろん、仕事場の放火や賄賂の話も捏造である。

 この映画、最初から最後まで本当のことは極めて限定的である。それに対して、フィクションだからという正当化は詭弁であり、史実に基づくフィクションというのは、現実通りに再現できないものを虚構化することは許されても、捏造や改竄が許されるということではない。

 結果的に、「MINAMATA」は、水俣のことやユージン・スミスのことが、かなり間違って伝わる映画になってしまっている。

 そして、あの入浴写真だけ本物を使うというのは、それ以外の嘘を、本当のことのように錯覚させる力もある。

 この記事のなかで、智子さんの父好男さん(87)に、記者が改めて聞いたところ「アイリーンさんとの話し合いで、あの写真は出さないことになっている」との考えは変わらないとのことでした。とあるように、上村さんご両親は、今も、あの写真を公開して欲しくないと思っている。

 写真は誰のものか? などと、大仰な問いをたてて、深刻ぶった議論をするのが好きな人がいる。

 しかし、水俣を題材に、自分の”作品作り”のために写真を撮るという行為は、人間のモラルとしてどうなのか?をまず考えるべきだろう。

 水俣病の問題であれ何であれ、表現者の作品作りの題材であってかまわない(表現者の権利の主張)ということであれば、上村さんご両親の気持ちを必ずしも第一にする必要はない、というスタンスも正当化できる。

 さらに、水俣病をテーマにした表現は、権力に対する闘争こそがもっとも大事で優先されるべきものだとするならば、その大義のために、個人の気持ちは、多少は犠牲になってもしかたない、という理屈も成り立つ。

 作品作りの一つのアイデアとして水俣問題を題材にし、しかも、それが大義を主張するものになった時、制作側は、自分を正しい側に置いて、自分の社会的評価を高めるために制作しているだけである。

 そうした優越意識が傲慢化し、自分を正当化する偽りのストーリーを作り、そのことによって歪められたり引き裂かれたりする人々のことが意識の外になり、けっきょく、自分の側だけの達成感や爽快感を得ることで終わる。

 この映画に感情移入して賛美している人は、そうした作り手の気分に乗せられ、その気分と一体化してしまって達成感や爽快感を得ていることになる。もしも、制作者が水俣の現実を自分ごととして受け取り、苦悩や葛藤をひきづっていたら、作品を観る者もそれを感じ取って、その感情にシンクロするだろう。

 おそらく、多くの鑑賞者は、そうした苦悩や葛藤をひきづってはいない。だから、その人たちが口にする水俣に対する問題意識は、映画監督や俳優が口にしている問題意識と、まったく同じである。

水俣で起きたことを世界の人々に伝える必要がある。水俣に限らず、企業の利益優先の姿勢が、多くの人を苦しめている。苦しめられている弱者のために、戦わなければいけない」と。

 このように単純化したメッセージは、アメリカのイラク攻撃の口実とそっくりであり、自分の側を英雄化して酔っているだけなので、簡単には事が進まない状況で悶々としたり、白黒つけられない状況で板挟みになる苦悩や葛藤を引きずっていない。

 MINAMATAの映画のきな臭さや、薄汚さは、こういうスタンスが透けて見えるからだ。それは、「エンターテイメントの力で、社会問題を問う意義がある」などと言う、お気軽な立場での偽善 

 アイリーン・スミス氏は、インタビューの中で、このようにまとめる。

「智子ちゃんの尊厳と、ユージンが残された人生のすべてを絞り出して撮影した作品を、どちらもおろそかにせず大切にする方法を見いだすことが、私が直面している課題です」

 この一文を読む多くの人は、こうした優等生的な言葉でまとめられてしまっていても、右から左にスルーしてしまう。

 しかし、この一文は、表現者の精神において、きわめて重要なことが欠けている。

 今日の社会では、「作品」が、骨董品のような市場価値によって計られるものになっているが、「作品」が何に対して責任を負うのかが重要だ。

 「作品」は、映画であっても写真であっても、当然ながら、その中で描かれる人々に対して責任を負う。

 表現者が、どれだけエネルギーをかけたかどうかなどは二の次であるということは、本物の表現者なら理解している。

 どれだけ自分にとって大事な作品であっても、結果的に、その中で描かれている人の気持ちを踏みにじるようなものであれば、その作品は、制作者にとってのエゴでしかない。

 そのエゴでしかない動機で、作品作りを行っている人がけっこういる。満員電車で疲れ果てた人の顔を狙って撮って、それが時代の空気を表しているという具合に。その撮られた人の一瞬の顔がアイコン化される。その人が、家に帰って、ベッドで眠る子供を見てどういう表情をしているかは、切り捨てられる。

 MINAMATAの映画のなかでも、智子さんは、水俣病のアイコンにされているだけである。日々のご両親との暮らしなどは、そのニュアンスも歪められて切り捨てられている。

 今の社会では、 ”尊厳”という言葉が安易に使われて、右から左に抜けていく。

 「智子さんの尊厳と、ユージスミスの作品のどちらもおろそかにせず大切にする方法」という言葉の欺瞞性は、尊厳の重みと作品の重みが、等価になってしまっていることへの無自覚さに由来する。その無自覚じたいが、尊厳から遠い心構えである。

 本来、魂のこもった作品というものは、描こうとするものの尊厳を大事にしようとする精神の運動の結果として、自ずから生じるものだ。対象が人物であっても、そうでなくても同じ。 

 それに対して、自分の作品化のための題材探しを行って作品を作ろうとする人は、作品ができてから、題材の尊厳のことを考え、その尊厳と作品の価値を天秤にかける。

 MINAMATAという映画は、もちろん後者だ。水俣の人々への尊厳ありきの精神で自ずから生じるように作られておらず、作品の題材としての水俣にすぎないから、尊厳という言葉を使っているわりに、映画の中で描かれている人の尊厳を損なう改竄が、数多くあるという矛盾が生じている。

 そのあたりに、私は、きな臭いもの、薄汚いものを感じてしまう。

 

ピンホールカメラで撮った日本の聖域と、日本の歴史の考察。

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