第1188回 縄文の水上ネットワークと、竹野の巫女?

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玄武洞兵庫県豊岡市

 兵庫県豊岡市には火山活動の痕跡が生々しく残るが、柱状節理で有名な玄武洞は、地磁気の逆転現象発見の場所。

 1929年、松山基範は、ここの玄武岩の持つ磁気が現在の地磁気と反対の向きを指していることを発見し、かつて地球の磁場が反転したとする説を発表した。この説は、広く認められるようになり、現在では260万年前から78万年前までは現在と反対向きであったことが認められている。

 日本列島は、東は北海道から東北を経て、群馬、八ヶ岳、富士山、伊豆半島に抜ける火山地帯があり、西は、南西諸島から九州を経て、中国地方の豊岡のこの地域まで火山帯がある。その中間の近畿や、四国には火山がない。

 兵庫県豊岡市は、西日本の火山帯の東端にあたり、近畿でもっとも新しい火山噴火である神鍋火山の噴火は2万5千年前で、山頂には今でも噴火口が残っている。

 同じ豊岡市でも、円山川流域は玄武岩、その西を流れる竹野川の流域は、同じ火山岩でも流紋岩地帯である。

 流紋岩は、(二酸化ケイ素)の量が70%以上と、火山岩のなかではもっとも多い岩で、花崗(かこう)岩に相当する化学組成をもつ。そのため、花崗岩のように白く、石英や長石がキラキラを輝いている。

 流紋岩は緻密で硬く、侵食に耐えるため、その分布域は、美しいシルエットの小高い山になることが多い。

 

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竹野浜
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淀の洞門(豊岡市竹野町、切浜)

 竹野川の河口の竹野浜は、江戸時代、日本浜三景の一つとされた記録もあるが、南洋のサンゴ礁のように白い砂浜が広がり、そのため、海の色も美しいブルーとなり、海岸線には、猫崎半島の賀嶋山など奇峰がそびえるが、これらは、流紋岩地帯ならこその景観だ。

 竹野川を海岸から2.5m遡ったところの見蔵岡遺跡は、重要な縄文遺跡で、土器以外に、縄文中期から後期のものを主体とする石器が669点も出土し、さらに西日本で初めての「石棒」の製作地が発見された。

 石棒とは、男根形の磨製石器で祭祀道具として使われたと考えられている。東日本は、製造地がけっこうあるが、西日本では珍しい。この豊岡の竹野以外は、京都の長岡京が築かれた向日市で、ここは銅鐸の製造地でもある。

 見蔵岡遺跡から竹野川を1.5kmほど遡った高台に、森神社(阿古谷神社)が鎮座しており、ここは、式内社の阿古谷神社の論社。祭神は土師氏の祖神とされ、周辺には、土師部の阿古氏が居住していた。

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森神社(阿古谷神社) 豊岡市竹野町

 第11代垂仁天皇の時代に、”いと醜き”という理由で、磐長姫のように天皇から忌避され、向日市(かつての堕国)で亡くなった竹野媛は、竹野の巫女の系譜なのだが、この向日山と豊岡の竹野が、ともに縄文時代の石棒の製造地であるのは何故だろう?

 豊岡の竹野は、江戸時代、北前船の寄港地だったが、潮と風と人力での航海は、過去に遡って縄文時代まで同じであり、古代世界においても竹野は、海上ネットワークの拠点だったのだろう。袴狭〔はかざ〕遺跡(兵庫県豊岡市出石町)からは、古墳時代前期(四世紀初頭)の16隻の「大船団の線刻画」が出土している。十六隻の船は、丸木舟に波除けの竪板と舷側板を取り付けた「準構造船」であり、外洋航海が可能な船団である。

 また、豊岡の円山川の河口に近いところに気比神社が鎮座するが、この地の石切り場から、流水紋の銅鐸が4個発見され、そのうちの2号銅鐸と4号銅鐸の二つは、出雲の加茂岩倉で出土した銅鐸と同じ鋳型から作られたもので、3号銅鐸は、大阪府茨木市の東奈良遺跡で作られたものであるとわかっている。

 円山川は、兵庫県の内陸部まで流れている大河だが、そこからは、市川や加古川で、瀬戸内海につながっている。東奈良遺跡は、淀川を遡ったところであり、そこから少し遡ったところが、木津川、宇治川桂川の合流点(かつては巨椋池だった)で、京都の向日山も、この合流点に近く、いずれも、河川の水上交通でつながっている。

 石棒の製造池と関係する竹野の巫女は、もしかしたら縄文に遡る巫女で、それが、弥生かヤマト時代のどこかの段階で、その役割を終え、それが神話の中で、墜ちて亡くなったと書かれることになったのではないだろうかというのが私の想像で、そのあたりを探るために、豊岡の竹野にやってきた。

 縄文の祭祀は、弥生の祭祀に違う形で受け継がれ、弥生の祭祀はヤマト王権以降にも違う形で受け継がれている。

 弥生時代の銅鐸の中には、縄文土器のパターンが引き継がれているし、銅鐸の幾何学的文様は、弥生時代後期の吉備の「特殊器台」に引き継がれ、特殊器台」が、前方後円墳の円筒埴輪になっていく。それらの祭祀の引き継ぎに役割を果たした人たちがいて、その一つが、土師氏だ。

 土師氏は、神話の中では、大王や、その夫人が亡くなった後、それまでの殉死にかわって、埴輪を埋めることを提案したとされる野見宿禰の末裔とされる。

 豊岡の竹野は、『国司文書 但馬故事記』に、「第21代雄略天皇17年春4月、出雲国土師連の祖である吾笥の部属、阿故氏人などが部属を率いて、阿故谷に来て、清器を作る」とある。

 阿故は赤土で、この場所は、須恵器を作るのに適した地だったと考えられ、近くには県下最古ともされる須恵器窯跡が検出されている。

 竹野媛が亡くなった堕国(京都府向日山)もまた、土師氏と関わりの深い泊橿部(はつかしべ)が活動していたところだった。この部民は、洪水が多かった鴨川と桂川の合流点の治水に治水に従事していたとされるが、私の想像では、泊橿部(はつかしべ)は、洪水対策のための人柱にも関係していて、その人柱が巫女だったのではないだろうか。

 後に、古墳への埋葬において人柱をやめて埴輪にした時、土師氏という名を賜ったとされるので、それ以前の呼ばれ方が、泊橿部(はつかしべ)なのかもしれない。はつかしい=羞であり、羞というのは、古代、犠牲を神に薦(すす)めることを表す。

 そして、”はじ”が、土師に転化したのではないだろうか。

 兵庫県豊岡の阿故谷と、京都の堕国(向日山)は、石棒の製造場所であることと、水上交通の要、はじ=犠牲、土師氏、そして「竹野」というキーワードでつながっている。

 

ピンホールカメラで撮った日本の聖域と、日本の歴史の考察。

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