「これまで海の上の人間の物語を撮ってきた。しかし、海の下のもうひとつの物語があることに気づいた」
石川梵監督の映画「くじらびと」の誕生秘話のなかにある、この言葉が、とても大事なことを含んでいる。
あらかじめ設計図を作って、その設計図にそって必要なものを取り揃えていく作り方だと決してたどり着くことのない境地。設計図にそって作れば完成で、その完成品に多くの中途半端さがあっても反省しない。そもそも、最初から対象のリアリティに深く迫ろうという気持ちもない。だから、対象を知るための努力も浅くなる。
映画 MIANAMATAの欺瞞性は、そこにある。
それに対して、映画「くじらびと」を作った石川梵のように、自分に都合の良い設計図で対象を処理するのではなく、気の遠くなるような時間をかけて対象と付き合い、事実そのものを積み重ねていくことで事実全体のリアリティをつかもうとする精神だと、そのプロセスの中で、必ず、もう一つの物語を発見し、そこから再スタートを切らざるを得ない。そのようにして作り上げても、まだ別の物語があるだろう、まだ中途半端なところがあるだろうと、自分の体験上わかる。そして、対象への敬意があるからこそ、その中途半端さに対して申し訳ない気持ちが残り、再チャレンジする。表現者の誠実というのは、そういうものだと思う。
私が、しつこく映画「MINAMATA」のことについて書いていたので、長い付き合いのある映画監督が、私のブログに目を通して、連絡くださった。
「しっかり読みました。すべて納得です。薄汚い映画でした、なにもかもが。精神の汚れはいたるところに出る。それが瞬時にわかる。私たちの身の回りがインチキだらけになってきました。恐ろしいことです。」
ひどい映画は無数にあり、エネルギーと時間を使って、それらを非難しても意味がない。私が、映画「MINAMATA」にこだわって書き続けているのは、「私たちの身の回りがインチキだらけになっている」ことを、 MINAMATAの映画が、あまりにも象徴しているからだ。
単なる娯楽商業映画にすぎないものを、「水俣病」をテーマにすることによって何かしら深みのある装いにして、社会的正義を説くなどというのはインチキ(精神の汚れ)であり、そのインチキに気づかない人、もしくはそれを利用しようとする人が、文化人や知識人の装いをした人のなかにも大勢いて、インチキな啓蒙活動に携わっている。
ユージン・スミスは、表現する者はfair(公平)でありhonest(正直)でなければならないという信念を持っていた。どれだけ彼の日常が乱れていようとも、表現に対するこの信念があるからこそ、彼の表現は、薄汚いものにならない。
表現者が、表現の対象に対して、fair(公平)で、honest(正直)であるとはどういうことか?
たとえば、そのことを深く思ってもいないのに、深く思っている装いをするのは、 honest(正直)ではない。
日頃、水俣のことなんかまるで考えていないし、深くわかろうともしていないのに、「水俣のことを世界に伝えるお手伝いをしたい」などと言う映画監督は、honest(正直)ではない。MINAMATAの映画の内容に深く向き合えば、この映画監督の言葉が嘘で、ただのポーズにすぎないことがわかる筈なのに、その不正直に簡単に騙される人が多い。
この映画監督の言葉を受けて、「水俣のことを世界に伝えるうえで意義がある」などと言う人も、本当にそう思うならば、もう少し水俣の事実と向き合うはずであり、事実に向き合えば、あの映画の嘘にも気づくはずなのに、そこまでのことはしない。けっきょく、「水俣のことを世界に伝えるうえで意義がある」などと言う人も、そこまで思っていないのに、思っているポーズをとっており、honestではない。honestでない表現や言論のリレーが、薄汚さを拡張する。
それでは、表現におけるfair(公平)というのは、どういうことか?
それは視点の偏りがないということだが、「チッソ側の言い分にも耳を傾けろ」という類の陳腐な主張なんかではない。
ユージン・スミスも自覚しているように人間の意識は偏るものであり、偏りがない視点というのは、神の目を想定しなければならない。
たとえば、ハッピーエンドなどという人間だけを満足させ爽快にする結末は、神の視点にはないだろう。
人間は神にはなれないが、表現者は、神の視点とでも言うべき、事実に対して誠実に向き合う心構えを失うわけにはいかない。
あらかじめ人間が設計した筋書きにしたがって、必要な材料をそろえるという作り方は、それだけでfair(公平)からは遠い。
フィクションであれノンフィクションであれ、事実を積み重ねていくことで、どこに導かれるかは、それこそ神の思し召しという姿勢がfair(公平)であるということになる。
「これまで海の上の人間の物語を撮ってきた。しかし、海の下のもうひとつの物語があることに気づいた」という石川梵の言葉が、fair (公平)な視点を表している。
フィクション映画の全てが、あらかじめ作られた筋書きにそって作られるものに限定されると思っている人は、映画体験が浅い。
そして、フィクション映画が全て事物や事実に即していないという考えも間違っていて、事物や事実(人生を含む)のリアリティに迫るために、あえてフィクションという手法をとっている(とらざるを得ない)映画もある。
映画を分類するうえで、フィクションかノンフィクションという分類は意味がなく、単なる娯楽か、事物や事実(人生を含む)のリアリティに迫ろうとしているかの違いがあるだけだ。
ゆえに、「事実に即したフィクションである」という言葉は詭弁であり、もしも、事実(人生を含む)のリアリティに迫ろうとしていなければ、「事実に即した娯楽映画である」というキャチコピーが妥当だ。
だから、映画「MINAMATA」を評価するうえで重要なことは、この映画が、事実のリアリティに、どこまで迫ろうとしているかの一点である。
そして、もしそれが中途半端なものであり、その中途半端さに対して何の反省もないとすれば、その対象である水俣の人々やユージン・スミスに対して何の敬意もなく、ただ自分のために利用しているだけであり、そうなると、単なる娯楽映画ではなく、薄汚い娯楽映画である。「事実に即したフィクションである」という言葉は、「水俣病を題材に薄汚い娯楽映画に脚色したものである」に置き換えられる。
もし本気で、水俣やユージン・スミスのリアリティに迫ろうとしているならば、自分がアウトプットしているものと、事実のギャップに葛藤する。だから、相手のことをさらに深く知ろうとする。
深く知ろうとすれば、抜け落ちるはずのないことが、MINAMATAの映画では、あまりにもたくさん抜け落ちている。そして、その抜け落ちていることに自責の念があるようにも感じられない。つまり本心では、単なる娯楽映画を作っているだけだからだ。
にもかかわらず、社会的に意味があるものであるかのようにふるまう。その欺瞞性が、精神の汚れである。
水俣のことを世界に伝えるというのは、単に、「こんな病気がありました」と記号処理した情報発信をすることでない。
記号処理した情報発信というのは、観る人の記憶の深いところに何も残らない。
その証拠に、映画「MINAMATA」のエンドロールで世界様々な地域での公害問題のことが出てきて、一部の人が、あれを高く評価したりしているのだが、そのエンドロールで取り上げられていた地名のこと、今もしっかりと覚えている人がどれだけいるだろう?
そして、その取り上げられた地域のこと、家に帰ってから深く調べ続けている人が、どれだけいるだろう? あの記号処理は、さらに詳しく調べて知ろうとする衝動につながっているだろうか?
あの映画に刺激を受けた人がいるとしたら、それは、英雄的行動のカッコよさであり、自分もそうした人になりたいなあ、というくらいだろうか。それは問題意識の芽生えというより、退屈で味気ない人生を打開したいという自己承認欲求の高ぶりを感動と履き違えているだけかもしれない。それは、高ぶりにすぎず、何かにリアルにつながったわけでないので、すぐに消える。娯楽映画というのは、そのように消費されるものだ。
事実を伝えるというのは、記号処理した事実ではなく、事実のリアリティを伝えること。そして事実のリアリティの体験こそが、本当の意味で、胸をえぐられるような体験などを伴い、何らかの意識の変容につながる、
私が長々と書き続けているのは、映画「MINAMATA」という薄汚れた娯楽映画を抹殺したいからではなく、水俣の事実やユージン・スミスの精神のリアリティに少しでも近くためだ。そして、当然ながら、こうした試みは、石川梵の言葉のように、もう一つの物語に、どこかで必ず直面し、自分の不完全さを認識させられることになる。
石川梵は、このインタビューのなかでこのような話を語っている。
アフガニスタンで、従軍取材で地雷原を歩いているとき、石川の前を、10代の少年が地雷避けになり歩いてくれた。
「ソ連軍に迫害されていたアフガニンスタンの実態を世界に知らせてほしい一心で、アフガンの人々はジャーナリストに非常に友好的だった。とはいえ身を身を挺してまで、私の命を守ろうとするその心根に深く感動した。なぜ、そんなことができるのか? そして思ったのは彼らのことを深く知るためにはイスラム教をもっと知らなければならない。ただ、そのためにはそれを知る物差しがなければならない」
その物差しを手に入れるため、石川は日本に帰り、伊勢神宮の撮影を始める。仏教渡来以前の日本の神道から学び直したいと思ったからだ。
ユージン・スミスも、映画MINAMATAで描かれているように酒浸りになっていた時に水俣病のことを知って、使命感に燃えて、水俣の地に行ったわけではないということは、これまでのブログでも書いた。
ユージン・スミスもまた、太平洋戦争や、日立製作所の取材の時、日本人はなぜそんなことができるのか?と衝撃を受けて、そのため、日本のことをもっと深く知りたいと考えて日本を旅した。その時、漁村で生きる人々に、古来から続く日本人の自然観や死生観を感じとった。だから、日本を知るために、日本の漁村をテーマに写真を撮りたいと思っていた。
自分の心に強く迫ってくるものの正体、その事実のリアリティに深く迫ろうとする精神の運動が、ユージン・スミスを水俣への導いた。
石川梵の精神の足跡と変わらないものがそこにあり、表現することに対して、fair(公平)で、honest(正直)であろうとすれば、そのような因縁が続いていく。
fair(公平)で、honest(正直)であることが、fairでhonestなものとの出会いを増やしていき、ますます、fairやhonestに対して敏感なセンサーが育まれ、それに反したアウトプットができなくなる。
そうでなければ、表現におけるfair(公平)や、honest(正直)が、どういうものかわからなくなってしまうほど疎遠になり、鈍感になり、それに反したものを平気でアウトプットできるようになる。
その量が増えていけばいくほど、私たちの身の回りがインチキだらけになっていき、それはとても恐ろしいことでもある。
MINAMATAという言葉をインターネットで検索すれば、この映画を宣伝する文章ばかりがずらりと並び、私が10回くらい非難の言葉を連ねても、映画を観て感動に酔い、その酔いを邪魔されたくない人には、ここで書いているようなことは、関係ない戯言である。
表現におけるfair(公平)や、honest(正直)について真剣に向き合う人が、どれくらいるのかわからないが、蜘蛛の糸のような細い糸でつながっていく人は必ず存在し、その祈りのような繊細なリアリティこそが、表現の力なのだと思う。
*ピンホールカメラで撮った日本の聖域と、日本の歴史の考察。