第1186回 たとえフィクションであっても、事実を伝える際のモラルは必要だ。

「Let truth be the prejudice」真実を偏見(こだわり)にしようというユージンスミスの有名な言葉の中のTruth(真実)は、神様の目ではなく、人間の目からの真実である。

 ユージン・スミスは言っている。人間というのは、純粋に客観的であることはできない。せめて、fair(公平)でありhonest(正直)であることが重要であると。

 つまり、「Let truth be the prejudice」という言葉は、fair(公平)でhonest(正直)な目でつかんだことを、自分の prejudice(偏見=こだわり)にして、それを信念にして活動していこう、となる。

 公平さと正直さは、情報伝達および表現において欠かせないモラルだ。

 映画MINAMATAのことは、もう十分書いたと思っても、映画評論家とかコメンテイターとかが、無責任な言葉を撒き散らしているのを目にすると、たとえ誰も読まなくても書けることは書いておこうという気になる。これは、単なる映画批判ではなく、今日の日本の情報伝達者や、表現者の問題であり、いろいろな分野で、同じような愚かな現象が起きている。

 今回、水俣での上映会において熊本県が後援したが、水俣市が拒否したことについて、MINAMATAの映画監督が、水俣市は当時のチッソと同じで水俣病の人たちの立場にまったく立てていない、企業の味方をしていると批判していて、その監督の言葉に同意する形で文章を書いている愚かなライターがいる。

 水俣の問題について、自分で学習したうえで自分の言葉で語るのではなく、ハリウッドの映画監督に媚びている。

 なぜ、水俣市熊本県の態度が異なるのか、1179回のブログで書いたが、

こういう事実を少しくらい学習してから文章を書くべきだろう。

 チッソの味方をして被害を拡大したのは熊本県で、水俣で起きている異変の正体を必死に突き止めようとしていたのが水俣市なのだ。水俣住民の立場に立っていた水俣市が、この映画を後援できないと言っているのは何故なのか、と自分の頭で考えてから、公に文章を発表すべきだ。プロの書き手ならば、当然、その責任がある。

 このアメリカ映画は、水俣病の患者さんや家族以外の日本人は、チッソ関連の人物は極悪人で、それ以外の日本人は、まったく何の努力もしない顔の見えない存在(行政も含めて)であり、その荒野にやってきたアメリカ人が活躍するというストーリーになっている。西部劇とまったく同じパターンだ。

 これが逆になって、アメリカの中で起きた問題にアメリカ人が何もできず、そこに日本人がやってきてヒーローになるという映画を、アメリカ人が楽しんでくれるとは思えない。

 ようするに、映画MINAMATAは、アメリカ人には何の痛みもない問題で、爽快感すらあり、適度に同情できる映画に作られている。にもかかわらず、そのことがわからない日本人の情報発信者があまりにも多い。アメリカ人コンプレックスも、ほどほどにしろと言いたい。

 映画MINAMATAは、ユージン・スミスの言葉からすると、fairでもなく、honestでもない映画だ。

  ところで、今年のノーベル平和賞には、二人のジャーナリストが選ばれた。

 一人は、ロシアの独立系の新聞「ノーバヤ・ガゼータ」のドミトリー・ムラートフ編集長。通算24年にわたって編集長を務め、政府高官の汚職やロシア国内の環境破壊の問題を報じるなどプーチン政権に批判的な姿勢を貫いてきて、これまでに6人のジャーナリストが殺害されるなど激しい脅迫や暴力を受けてきた。

 もう一人は、フィリピンの​マリア・レッサ。アメリカのテレビ局CNNのマニラ支局長などを経て、2012年インターネットメディアの「ラップラー」を設立し代表を務めている。

 彼女は、麻薬犯罪の取り締まりなどに強権的な姿勢を貫くロドリゴ・ドゥテルテ大統領を、批判的に報道し続けてきた。

 つまり悪の退治ということで、国民の支持も得られそうなことを、かなり強引な手法を使って行なったロドリゴ・ドゥテルテ大統領を批判し続けてきたのだ。

 二人が選ばれた理由については、ノーベル平和賞の委員会は、(どんな権威にもなびかない)独立した活動で、かつ事実に基づくジャーナリズム活動の意義を評価したとのこと。

"Free, independent and fact-based journalism serves to protect against abuse of power, lies and war propaganda," said Nobel Committee chair, Berit Reiss-Andersen, when she explained why the prize was given to the two journalists.

 つまり、ジャーナリズム精神というのは、事実に基づいて、どんなプロパガンダとも戦う力であり、プロパガンダとは、特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する意図を持った行為の事である。

 国連のグテーレス事務総長は、今年のノーベル平和賞について「報道の自由は平和や正義、人権のために不可欠だ。不正行為を調査し、市民に情報を提供し、指導者の責任を明らかにするジャーナリストがいなければ、自由で公正な社会は実現できない」と訴えた。

 確かに、報道や言論の自由が損なわれ、ジャーナリズムが弱体化すれば、民主主義の土台が揺るがされかねない。

 しかし、報道の自由というのは、報道の信頼性と表裏一体の関係でなければならない。

 上に述べたユージンスミスの言葉のように、人間にとって純粋なる客観性というものは存在せず、表現には表現する者の”こだわり”が反映される。その”こだわり”の元にあるのが、当人の虚栄心や名声欲、保身や金銭にまつわるものでなく、fair(公平)でありhonest(正直)な精神かどうかが一番の問題だ。

 すなわち、ジャーナリズムは、どういう人物が、その情報を発信しているかも問われるのだ。

 日本においても、人権を守る正義を主張していたジャーナリストが、人権を損なう行為を平気で行っていたという事件があった。それについて、彼の仕事と、人権を踏みにじる行為を分けて考えるべきだと主張するフォトジャーナリストがいたが(その人は、映画MINAMATAを大絶賛している)、たとえば、それまでの仕事の中に、正義の難民支援や被災者支援などの寄付集めがあった場合、そのお金の使われ方が本当に誠実だったのかという疑念へとつながる問題である。

 情報を伝える者や表現者が君子でなければならないということではなく、その人物のfair(公平)やhonest(正直)に疑念を持たれてしまうようでは、その発信される情報も、疑わしいものになって当然だ。

 その意味で、 MINAMATAという映画は、非常に矛盾した映画なのだ。

 ユージンスミスという写真史においても重要なドキュメンタリー写真家を主人公にしながら、フィクションだからという口実で、事実に基づかないことを多数盛り込んでいる。 

 ユージンスミスの水俣行きのきっかけや、入浴シーンの撮影のことなど、これまでのブログで書いたが、そのなかには、不誠実なものも含まれている。

 毎日新聞のこの記事のように、工場排水の有機水銀水俣病の原因だと知っていたことを、実際につきとめたのは、1962年当時、当時東大の院生だった宇井純(故人)と、報道写真家志望の若者だった桑原史成なのに、1971年に来日したユージン・スミスであるかのように映画では描かれている。しかも、その映画の中のシーンは、宇井さんと桑原さんが行なったような状況とそっくりなのだ。つまり、他者の実績をパクっている。)https://mainichi.jp/sunday/articles/20211011/org/00m/040/011000d?fbclid=IwAR0GtZz-0eiT-we0mOjmf8DsrXeZFB3ZYbYDT7Xg99Pc1MOVQQyHpmmJ7uE

 宇井さんや桑原さんの努力が決定的な証拠となり、1968年9月には、厚生省が、「熊本における水俣病は、新日本窒素肥料水俣工場のアセトアルデヒド酢酸設備内で生成されたメチル水銀化合物が原因である」と発表し、焦点は、患者への補償にうつっていた。にもかかわらず、1971年になって水俣にやってきたユージンスミスが、チッソが隠している病気の原因を突き止めようとしたという内容の不正直な映画を、なんで、日本の評論家やフォトジャーナリストの多くが、手放しで褒め称えているのか?

 ユージン・スミスというアメリカ人や、アメリカ国籍のアイリーン・スミスが日本に行く前は、日本のジャーナリストや表現者や研究者が、何もしていなかったような描き方をされているのである。石牟礼道子さんも、桑原史成さんも、どこにも登場しない。

 にもかかわらず、水俣病のことを世界に伝えてくれたことに感謝すると言っている。

 日本の知識人、文化人とされる人たちの欧米崇拝病は深刻だ。

 そして、こんな嘘のストーリーを、ハリウッド映画の人気俳優のジョニーデップが主演しているので、子供と一緒に観に行く人も多いのである。

 ジャーナリズムの精神に反する内容のものを、ジャーナリズムの英雄であるユージン・スミスを使ってやってしまった映画MINAMATAを、軽い気持ちで賞賛している人は、事実と虚偽の剥離の問題をもう少し冷静に考えた方がいい。

 いくら事実を歪めていても、そんなのは枝葉にすぎない、重要ではない。水俣病のことを世界に伝えるとか、チッソの悪を暴き、多くの人に知ってもらう役割を果たしているので、この映画は評価に値するなどという考えは、安直なプロパガンダに与しているにすぎない。

 アメリカという国は、常に自分たちが世界の人々の中で率先して、正義の活動にコミットしていると喧伝する国なのだ。

 この映画MINAMATAの中では、「LIFE」の編集長や編集者といったアメリカ人も、英雄的行為に参加している人たちとして描かれているのだが、ここにも欺瞞がある。

 今回の映画のなかでも登場するのだが、チッソの工場から海に排水されるシーンがある。これは、ユージンスミスも写真に撮った光景だ。

 ユージン・スミス水俣を訪れた1971年は、厚生省もすでに水俣病の存在を認め、その原因がチッソの排水だとわかっていたので、排水の中には有機水銀は混ざっていなかった。

 にもかかわらず、この写真が1972年6月号の「LIFE」誌で世界に向けて発信された時、LIFEの編集者は、「パイプからの死の排水」と、かってに嘘のクレジットをつけた。

 そのように事実を曲げられたことに対して、アイリーン・スミスは激しく怒り、泣いたと語っている。自分たちと編集者たちとの会議では、そんなことは伝えていないのにと。

 私も編集の仕事に携わる人間だから敢えて言うが、編集部で写真を構成してクレジットを入れた後、写真家に何も確認しないのは信じがたい。事実を、できるだけ正しく間違えのないように伝えるという配慮がないとしか思えない。

 けっきょく、LIFEもそうだし、映画「MINAMATA」もそうだが、作り手は、水俣や、水俣に関わった人物たちへの責任を感じておらず、彼らが一番気にしている責任問題は、興行成績や販売部数なのだ。

 そして、ハリウッド映画の「MINAMATA」は、やはり、アメリカでの興行成績がもっとも重視されていただろうし、だからこそ、アメリカ人にとって爽快感のある物語に作り変えられている。そのアメリカ国内で、ジョニー・デップのDV問題によって公開が延期されたまま白紙状態になっているのは、なんとも皮肉なことだ。

 公開中止になっているのは、配給会社にとって、ジョニー・デップのDV問題によって自らのイメージダウンにつながることが懸念されるからで、水俣のことは、気にもとめていない。

 いずれにしろ、興行の結果が伴わなければ、ハリウッドの映画監督は次の作品を撮らしてもらえないし、雑誌の親会社は、雑誌の存続を認めない。

 LIFEは、一時は700万部の発行部数を誇ったが、1969年頃から慢性的に赤字体質となり、タイム社はこれ以上の改善は見込めないとして1972年12月29日号をもって休刊とした。ユージンスミスの撮った水俣の写真は、1972年6月2日号に発表されたが、LIFEの存続は極めて難しくなっている時期だった。

 アイリーン・スミスが、「パイプからの死の排水」の件で、LIFEのやり方に対して怒りで泣いた時、ユージンスミスは、「でも、これでも、今までで一番マシだよ」と冷静に答えたと、アイリーンスミスが回想している。

  1961年に、ユージン・スミス日立製作所のPR雑誌のために撮影を行うために、日本に来ることになったのも、そんな体質のLIFEと決別したからだった。

 ユージン・スミスは、自分の保身を優先してLIFEと仲良くやっていくことより、自分の心に正直であることを選んだ。

 その結果、日本と縁ができた。ユージン・スミス水俣への導いたのも、映画の中ではアイリーンスミスになってしまっているが、これも嘘で、これまでのブログでも書いたが、森永純や元村和彦という日本人との魂の交流があったからだった。

 事実がかなり歪められている映画「MINAMATA」を観て、アイリーン・スミスは、若い時のように、怒りで涙するのだろうか?

 ユージン・スミスは、これでも今までよりマシだよと、言うのだろうか。

 私は、ユージンは、「今までで一番ヒドイ」と言うのではないかと思う。なぜなら、自分の写真の使われ方ならまだしも、人の手柄が自分の手柄のように扱われていることに対して、彼は、かなり抵抗感を持つような気がする。

 ユージンスミスが水俣での取材中にアシスタントだった石川武志さんが、インタビューにおいて、次のような話をしている。

 「田中実子さんは、18歳。胎児性水俣病患者の一1人だ。ふっくらした唇からはわずかに涎(よだれ)が垂れていた。時々うつろな目でこちらを見てほほ笑む。ユージンは「ジツコチャンは病なんだよ。ジツコチャンは年頃の娘なんだ。好きな人に好きともいえない女性なんだよ」と涙を流した。「ジツコチャン、私の写真には、あなたの移ろいやすい乙女心の闇や、奥底が写っていない」。結局、1000枚の中から写真集に使った実子さんの写真は1枚だけだった。巨匠と呼ばれたユージンが、石川さんの前で赤子のように大泣きした。 」(聞き手:ニッポンドットコム 土井恵美子さん)

 ジツコちゃんの真実を伝える写真は、1000枚の中から1枚である。1960年代はじめにユージンスミスが来日した時、アシスタントをつとめていた森永純さんは、ユージンが撮った写真のプリント作業を任されていたが、1枚のネガから、いくらプリントしてもOKがもらえず、100枚以上焼き続けて、相当鍛えられたと言っていた。

 ユージン・スミスは、物事を伝えることにおいてはそこまで厳密であり、決して、いい加減なことはやらない。

  物事を伝えることにおいて、正直さと公平さをモットーとして、さらに、自分のことより人を思いやる気持ちの強いユージン・スミスは、もし生きていてMINAMATAの試写会を観たならば、水俣問題と真摯に向き合った石牟礼道子さんや桑原史成さんなどの日本人表現者や研究者の人権を無視し、自分とアイリーンスミスだけが水俣病の人たちと一緒になって戦うヒーローに祭り上げられている商業的プロパガンダ映画を、決して認めなかっただろう。

 この映画を支持するインテリ層の人たちは、「好き嫌いではなく観るべき映画、なぜなら水俣のことを考えるきっかけになる」などという言葉を口にするのだが、「事実を伝える側の最低限のモラル」こそを、考えるきっかけにした方がいいと思う。

 ジャーナリストや表現者が、国家によって抑圧されたり利用されるようなことがあってはならないが、ジャーナリストや表現者も、自らの活動を自分の都合で正当化するのではなく、fair(公平)とhonest(正直)の精神によって、その信頼を保つ努力をしなければ、情報伝達や表現の分野は、荒廃するばかりである。

 

 

 

ピンホールカメラで撮った日本の聖域と、日本の歴史の考察。

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