第1179回 映画「MINAMATA」と、当事者意識の問題。

 ユージン・スミスを主人公にした「MINAMATA」の映画に対して、熊本県水俣市の判断は違っていた。この映画の水俣での上映会において熊本県は後援したが、水俣市は後援を拒否した。熊本県の方が水俣市よりも懐が大きいなどと思う人は、水俣のことについて、お気楽でいられる立場なのだろう。おそらく、そういう人の多くが、この映画を、絶賛しているのではないかと想像する。

 熊本県は、水俣病が発生した時、被害を拡大させた側にあたる。水俣で異変が起きて、その原因がチッソの工場からの廃液であると明らかだった時、熊本県は、チッソの操業を規制する権限を持っていたのに、それをしなかった。

 熊本県は、その罪を贖うためにMINAMATAの上映会を後援したわけではない。後援の理由は簡単なことで、MINAMATAの映画は、チッソ株式会社と住民の戦いだけに焦点を当て、行政責任にはまったく踏み込んでいないからだ。映画のなかで、水俣という県内の一部で起きた企業と住民のあいだの問題として整理されていれば、熊本県の行政責任者は、この映画に気楽に対応できる。

 このMINAMATAという映画は、チッソ株式会社だけを悪役にして、行政責任については、まったく踏み込んでいないが、ここに、甚だしい欺瞞がある。

 県や国の行政責任というのは、悪徳政治家や、悪徳官僚の利権問題を指すのではない。

 水俣病の場合は、当時、高度経済成長期の真っ只中であり、チッソの操業は、国民すべての恩恵に関わる問題だった。福島原発事故も同じである。原発問題を東電の問題にしてしまえば、国民は知らぬ顔ができるが、国民の電力需要を支えるための東電の原子力発電だった。福島原発の場合は、地元ではなく東京都民のためのものである。行政責任というのは、実は、深いところで国民の責任と関わっている。だから、行政責任を問われる場合は、保証は税金で行われる。

 しかし、娯楽映画は、国民を嫌な気持ちにさせるとビジネスにならない。だから、そこまでは突っ込まない。チッソ株式会社だけに罪を着せて火あぶりにしておけばいいという発想になる。

 それに対して、水俣市の場合は、そうはいかない。なにせ、チッソの工場で働く人が大勢いる。今は持株会社となっているものの、その子会社の位置付けになった会社の工場が、現在も水俣製造所として操業を継続し、地元の多くの若い人の就職先になっている。

 福島原発事故の場合は、東電社員はよく頑張った、経営者が悪いと伝えられることが多いが、MINAMATAの映画では、経営者も悪人だが、社員もまた悪の集団として伝えられている。

 水俣市は、同時に、漁業で身を立てている人も大勢いる。直接的に水俣病の犠牲になった人も数えきれないほどで、水俣に異変が生じた時、水俣市は、水俣湾で採取された魚介類やネコを熊本大学医学部に送るなど、市民の立場に立って懸命の努力を行なった。身内の出来事であるから、当然、そうなる。

 その後も、水俣の人々は、風評被害と戦いながら、漁業を続けなければならない。

 そんな立場の水俣市は、「MINAMATA」の映画の後援を笑顔で引き受けられるはずがない。

 なぜなら、映画の中で、外からやってきて去っていくユージン・スミスとアイリーン・スミスがヒーローになっても、残り続ける水俣の人はヒーローの引き立て役でしかなく、地元が汚染のイメージと結びつけられるだけのことで、さらに、チッソ関連の会社で働いている人たちが傷ついたり、独善的な人に、責められたりする可能性があるからだ。

 もちろん、チッソの社員の中にも水俣問題に対して真摯に向き合っている人も存在するわけで、水俣病に関する表現を全て無くせなどと、私はまるで思っていない。

 問題は、深刻で、慎重に取り組まなければならない問題が、エンターテイメントの材料にされていることだ。

 水俣周辺に住みながら、このエンターテイメントを親子で見にいく人たちがいるかもしれない。

 その子供の同級生が、チッソ関連の会社で働いている人の子供かもしれない。それは、人気俳優のジョニー・デップの敵なのである。退治される海賊のようなものだ。こうした状況を作り出す可能性のある映画が、子供たちにも水俣のことを知ってもらう良い機会だ、などと言えるのだろうか。

 けっきょく、自分ごとの問題として考えていなければ、好きなように何でも言えるのである。フィクションの出来として素晴らしいとか、できあがったものが感動的であれば、事実の変更があってもいいのだ、それが芸術なのだとか。

 私は、MINAMATAの映画について、賛成か反対かという白黒決着を目指しているわけではない。

 そもそも私は、水俣の当事者ではない。石牟礼道子さんのインタビューを行なったり、自分が作る風の旅人の誌面で伝える努力はしたが、地元と深くつながった地道な活動は行なっていない。 

 だから、MINAMATAの映画において、私は水俣の当事者として何かが言えるわけではなく、私が、 当事者として言葉を紡げるのは、表現物や情報を世の中に発信する立場のことだ。

 このことは、作家や写真家や映画製作者や、雑誌などのメディアの編集長や記者という職業人だけの問題ではなく、この時代は、SNSなどを通じて誰でも情報伝達することができる立場にいるので、情報との接し方においては、全ての人が当事者である。

 私が、ここ数日、言葉を尽くして書いているのは、そのことが念頭にある。こうして書くことは、自分の中に、自分の監視役としてのもう一つの目を作ることにつながるからだ。

 表現物や情報を世の中に発信する立場の当事者として、MINAMATAの映画で、どうしても引っかかってしまうのが、「エンターテイメントとしても楽しめる」という言葉だ。

 水俣病にかぎらず、自分が障害をもっていたり、障害を持つ者の肉親である場合、自分の立場が素材になったエンターテイメントとしても楽しめる教養映画など、受け入れられそうもない。

「事実に基づくフィクションである」などというキャッチコピーも、実にいかがわしい言葉だ。

 どんなノンフィクションであっても、作り手の恣意性や個性が反映させる。だから、事実に反する内容のシーンを挿入したフィクションを作っても、本質が変わらなければ問題ないとか、事実に添っていないことは作品評価において些事にすぎないなどと公言する表現者もいる。

 しかし、こうした詭弁には気をつけなければならない。

 「事実に基づくフィクションである」という狡い言葉は、実態と大きくかけ離れていると非難されても、これはフィクションだからと逃げの手を打っている言葉だ。

 ならば、紛らわしい言い方をせず、「これはフィクションであり、劇中の人物は実在のものとは異なります」というスタンスで、水俣や世界各国の公害問題などを象徴するような脚本を作り、ユージンスミスをモデルにしたフォトジャーナリストを設定して映画を作ればいいのだ。それでも十分に感情移入できる人は大勢いる。そして映画の最後、エンドロールで、この「MINAMATA」の映画がやっているような世界各地の実際の現場のことを出せばいい。

 「不完全かもしれませんよ」とプロテクションを張りながら、具体的な場所や人物や会社名を使って映画制作を行うのは、表現者のモラルとしてどうなのか。

 その不完全な作り物に利用された人の気持ちが、完全に無視されている。作り手からも、多くの鑑賞者からも。

 いくらノンフィクションで作り手の恣意性が入るにしても、実態に忠実であろうとする葛藤が、その人の表現の奥行きになる。その奥行きこそが、表現の個性となり、その個性こそが表現の評価の対象だ。

 目の付け所のユニークさとか処理の仕方とかを表現の個性だと判断してしまう人は、その人が、表現を伝えることの真の意味の葛藤を経験しておらず、表現の奥行きがわからないからである。

 MINAMATAにおいて、ユージンスミスが、病院に潜入して科学的証拠を探し、チッソの社長の買収に抗い、仕事場を放火され、それでもくじけず、傑作写真を作って、その一枚の写真が、憎い敵に勝利する決定的な力になるなどという嘘デタラメの英雄ストーリーに乗せられ、劇的な展開に引き込まれてしまっているだけなのに、表現を味わっているように錯覚している大勢の人たちがいる。

 それは、自分の目で、表現の奥行きを味わったり噛みしめているわけではなく、ジェットコースターに乗せられて、ハラハラドキドキさせられているだけだ。

 自分の目で見て、自分の頭で考えているようで、実は、そう感じたり考えたりするように導かれているだけ。一種の洗脳に近い情報操作だ。

「事実に基づくフィクションである」という言葉の欺瞞性は、もう一つある。

 事実を伝えるためのノンフィクションにしようと思えば、相当な時間を覚悟しなければならない。

 もっとも楽なスタンスと方法が、「事実に基づくフィクションである」なのだ。実態が正しく伝わらなくても責任は生じない。それゆえ、水俣問題のような深遠なテーマでも、ノンフィクションに比べて短期間の準備ですむし、都合の良い時に人と物を集めて、計画通りに作ることができる。美術その他にお金と労力がかかろうが、不測の事態をあまり考えることなく、想定する興行収入とのバランスで予算を組めばいい。

 ディズニー映画のように、無聊の慰めと割り切った娯楽商業映画なら、この方法でもかまわない。

 しかし、水俣という特定の地域の誰かを傷つけるかもしれない題材において、こういう無責任な立ち位置で物を作り、販売するのはどうなのか?という疑問がある。

 こうした欺瞞性に無自覚のまま、エンターテイメントとしても楽しめる水俣問題の映画、エンターテイメントだから、きっと大勢の人に見てもらえて(水俣の人にとっても良いことだろう)などという言葉を平気で発する人の神経が、私には理解できない。

 

 

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