第1176回  水俣とMINAMATAの違い

 ジョニー・デップが写真家のユージン・スミスを演じる映画、「MINAMATA」を観てきた。

 これは「水俣」の映画とは言えないので、「ユージンスミスと水俣」というタイトルくらいが、ちょうどいい。

 ユージンスミスの写真については昨日書いたとおりなのだけれど、それとは別に、この映画、観ていて何だか悲しくなった。

 この映画に感動した、という人が多いみたいなので、批判的なことを書くのは少し気が引けるが、大事なこともあるので、勇気をもって書いておこうと思う。

 何だか悲しくなったのは、表現界の現実に対してであり、これほどまで単純化した感動ストーリーにしなければ人に観てもらえないのか、観る方が、満足できないのか、というポイントだ。 

 この映画、水俣のことを何も知らない人に、その事実を知ってもらえるという意義があるのかもしれないけれど、何も知らない人にとっては、ハリウッドお決まりの善悪対立で、ハラハラさせて、最後は、ユージン・スミスをヒーローのような扱いにして、悪人を心変わりさせて、勝利にこぎつけて感動させるというパターン。

 ストーリーで人の心を動かそうとしているが、ディティールは、なおざりだし、ユージンの仕事場の放火とか、チッソの社長によるユージンの買収とか、科学的証拠を見つけるために病院に潜入するシーンとか、随所に、ハリウッドのアクション映画と同じレベルのありふれた演出(史実ではない)を紛れ込ませている。

 ユージンスミスが水俣行きのきっかけになるシーンも嘘である。ユージンに水俣行きを提案したのは、ユージンが影響を受けた日本の写真家、森永純のドブ川の写真集を作った元村和彦さんであり、その時、ユージンスミスとアイリーンスミスは同居していた。

 もちろん、この映画をきっかけにして、水俣に関心を持つ人が増えて、石牟礼道子さんの本を読んだり、ユージンスミスよりも10年以上前から水俣に通い続けて撮影をしている桑原史成さんの写真に触れて、映画ではまるで伝えきれていないことを知っていく人が増えるのであれば、この映画の意義もあるかと思うけれど、この映画を観て、水俣のことがわかったつもりになって終わり、だとすれば悲しすぎる。

 世の中に起きたことを少し知ったとしても、自分の心の底に、いくつもの問いが湧いてこなければ、次のステップを踏むこともないだろう。

 この映画、人々の心に、そうした問いを生み出す内容になっているのかどうか?

 映画の最後に、世界各国の環境破壊による犠牲者の写真が出てくるのだが、それらと、水俣ユージン・スミスが撮った上村智子さんの美しい入浴シーンは同じなのか?

 この映画は、あの入浴シーンもポリティカルな訴えの材料にしてしまっているところがあり、だから、環境破壊の犠牲者の一人のような扱いになってしまう。

 ユージンスミスの死後、この入浴シーンの写真において、そうしたポリティカルな取り扱いが続いていたためか、上村さんのご両親が、世の中に出し続けることの辛さを訴えた。

 それに対してアイリーン・スミスは、この写真の出版その他の露出に関する決定権が上村さんご夫妻に帰属することを誓約した。そのため、1998年以降、この写真は封印されてきたのだが、映画「MINAMATA」で、なぜかアイリーンが映画製作側に使用を許可してしまった。上村夫妻には撮影が済んでからの事後報告となってしまい、彼らの気持ちを裏切ることになった。

注) 第52回大宅賞を受賞した石井妙子氏が、『魂を撮ろう ユージン・スミスとアイリーンの水俣』(文藝春秋社)を出版されているが、この方が、現代ビジネスの中で、入浴シーンの写真の使用について述べられおり、そこからの情報です。https://gendai.ismedia.jp/articles/-/87864?imp=0

 ユージン・スミスがこの写真を撮った時は、そうした政治的材料としてではなく、一つの光景の美しさに純粋に心を打たれたのだろう。その美しさの謎に迫ることこそが、人々の心を水俣に引きつけ、水俣をさらに知りたいという気持ちに導く可能性がある。

 なのに、この映画は、その背景を省略し、挙句に、上村夫婦に無許可のまま(アイリーンスミスが許可はしたが)、写真を使ってしまっている。

 けっきょく、水俣で起きた事件だけに関心を寄せ、水俣の人々の心のことが、あまり重視されていないからだろう。

 この映画のなかでは、ユージンスミスが水俣に到着してすぐ、上村さんの自宅に泊まることになる。その家が、旅館のように綺麗サッパリしていたため、私は唖然とした。

 桑原さんが撮っていた上村さんの家の写真と、あまりにも違っていたためだ。ユージンが泊まった時は、変わっていたのかどうかは知らないが、それはともかく、その時、上村さんご夫婦から智子さんの話が出る。あの子は、「宝子」なんだと。

 そして、智子の下に子供が6人いて、智子の食事に5時間はかかるので、必然的に家族の絆は強くなるんですよと。絆は強くなると言いながら、大変なんですよという雰囲気。そして、ユージン・スミスが写真を撮らせてもらえないかと聞くが、断られる。

 このシーン、智子さんが、なぜ「宝子」なのかが省略されてしまっているのだけれど、水俣のことを考えるうえで一番重要なポイントなのに、どうしてだろうか?

 智子さんが「宝子」と呼ばれるのは、両親が心の底から慈しんでいるからだ。それは、桑原さんの言葉を借りれば、親として言い知れぬ負い目があったからだ。

 母親の良子さんの身体には、多量に摂取した魚介類に含まれたメチル水銀が蓄積されていた。しかし、智子さんを妊娠したことで、その毒は胎盤を通して智子さんに吸収されたと考えられ、「智子が私の身代わりになったとばぃなあ!」というのが、良子さんの口癖だった。

 智子さんが良子さんの身体から水銀の毒を吸い取ってくれたので、良子さんの症状も軽くなり、あとの六人の妹弟も元気に育った。

 だから智子さんは宝子であり、両親の智子さんへの情愛は、並ならぬものがあった。

 そして、智子さんには、はっきりとした意識があり、自分の周りで起きていることがわかっていた。桑原さんが撮った写真で、成人式で晴れ着を着て、微笑んだような顔を父親の好男さんに向けている写真があり、好男さんも素晴らしい笑顔を返している。あの笑顔こそが、水俣の人々が苦しみの末に獲得した魂を象徴するものであり、このたびの映画の中の上村好男さん役が演じる、大きな荷物を背負おわされてしまった、という表情は、かなり違う。

 

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桑原史成さん撮影による上村好男さんと智子さん(左)。上村さん一家(右)

 もちろん、残された写真からの判断であり、実際のところはよくわからないが、それでも、この映画で、あの入浴シーンの美しさにスポットを当てるならば、「宝子」について、誤解を生んでしまうような会話を挿入すべきではないだろう。あの入浴写真は、ただの環境破壊の犠牲者の写真ではなく、両親の心の底からの慈しみがあってこそなのだ。

 水俣のことを、ポリティカルな訴えの場として取り上げるのか、もしくは本当の意味で生命の尊厳を伝えるのか、制作側の考え方によって変わってくるのだろうと思うが、この映画は、生命の尊厳を伝えているように見えてそうではない。だから、ユージンの写真が、メッセージの記号にしか見えない。おぞましい状況の被害者というレベルの。

 チッソ株式会社と闘っている人が、「自分たちは病気で生活ができないわけだから、会社が非を認めて、生活のためにお金を用意しろ」という主張を繰り返しているようにしか見えないのも気になった。

 結果として、チッソ株式会社という悪人がいなければ現代社会の私たちと同じような生活ができたのに、その権利を奪われてしまった不幸な人たち、という状況設定で、その悪人に罪を認めさせるために、ユージンの写真が有効だった、という見せ方になってしまっている。

 しかし、水俣の水銀中毒という修羅の中で、現代社会における私たちの薄っぺらいライフスタイルを超えた、運命の引き受け方、魂の在り方、真の意味での生命の重み、そして本当の意味での救いのことを考えに考え抜いた人たちもいる。

 救いというのは、ただポリティカルな勝利で金銭による保証を獲得することだけではない。

 石牟礼道子さんは、「死があるからこそ、生きられる」という言葉を残しているが、誰もいつかは死ぬわけで、死とか病とか悲しみとか辛さを避ければ幸福に生きられるということではなく、そうしたものを生きる力に転換する魂を獲得した時に、人は救われるのではないかと思う。 

 石牟礼道子さんをインタビューさせていただいた時、一緒になって苦しみをともにする「悶えて加勢する」という言葉と、良いことも悪いことも運命を引き受けるという意味の「のさり」という言葉のことを、うかがった。この二つが、水俣の魂を解く鍵で、ここに少しでも焦点が当てられていればと思うが、石牟礼さんが登場しない映画なので、最初から、そういう発想では作られていない。

 興行収入を意識した娯楽映画にそれを期待するのは難しいかもしれないが、チッソ株式会社という悪人VS被害者ではなく、もう少し、水俣の人たちの強靭な魂の在り方にも意識を向けてもらいたかった。その方が、世知辛く意地汚い現代社会の中で、生命の尊厳の本当の意味がわからなくなり、表面的な人付き合いを繰り返しながら魂を希薄化させて、いいね!と虚しい相槌を打つだけの我々にとっても、意義あるものになっただろうに。

 「Minamata」の映画への違和感を感じるか、そうでないかは、もしかしたら、石牟礼道子さんの文学体験があるか無しかによるものが大きいかもしれない。そういう意味で、石牟礼さんというのは、この文明社会に、奇跡的に出現した存在かもしれない。

 石牟礼さん以外にも、杉本栄子さんや、緒方正人といった語り部の存在も大きいが、そういう人たちも、石牟礼さんの魂が、身近にあったからこそかもしれない。

 世界中で、水俣が起きたような出来事があっても(もちろん福島原発事故もそう)、石牟礼さんのような存在が現れるかどうかによって、後世への伝えられ方(場合によっては歪められて消化される)が、まるで違ってくるだろう。

 こうした悲劇において、人間の尊厳と本当の意味での救いへと魂を導く表現の力は、公害問題だけでなく、人生のあらゆる局面に関わってくる。

 修羅を通した表現の力、そして表現への敬意を感じずにはいられない表現、そういうものを具体的な形に整えた石牟礼道子さんという存在のかけがえのなさを、あらためて感じる。もしも石牟礼さんがいなかったら、水俣の伝えられ方はどうなっていたのか。

 「MINAMATA」の映画を見る価値がないとは思わない。映画だけでなく、石牟礼さんの「苦海浄土」も一緒に読めば、生命の重さとか命の尊厳の本質と、その言葉の意味するものの違いが、よりはっきりすると思う。

 おそらくこの映画だけを見ても、多くの人は、事実を知ったという気になるだけで、何も深く考えることはないだろう。

 その後に苦海浄土を読むことで、そんな自分自身と向き合うことになるかもしれない。

  話は関連するが、昨年末、アンジェリーナ・ジョリーが、イギリス人の報道・戦争写真家ドン・マッカランを描く伝記映画「Unreasonable Behaviour(原題)」を監督することが伝えられた。

 ドン・マッカランの写真展は、世知辛い日本国内で開催されたことがないが、彼は、太平洋戦争後、報道では伝えられなかった多くの内乱なども含め、世界中で起きた凄惨な争いを、驚くべき近距離で取材し続けた写真家だ。

 20世紀の聖書というのが作られて、黙示録を作るとすれば、彼の写真だけで大半はできるもかもしれない。

 私は、風の旅人の創刊の頃、野町和嘉さんに彼の写真を紹介されたが、ちょっと私の手を入れて編集できる範疇の題材ではなかった。パレスチナとかカンボジアなら、まだわかるところもあるが、ビアフラ戦争による飢饉とか、キプロス島の内戦とか、平和ボケ日本の中にいてはまるでリアリティを持てない現実が、世界中の隅々で起きているということに衝撃を受けるだけで、それらを、雑誌の一部で、「こんなことがありますよ」と無責任に伝えることなどできなかった。彼の分厚い写真集のように、起きている状況の詳細なディテールも含めて伝えることで初めて、大事なことが伝えられる。

 そんなドン・マッカランの世界が映画化される。MINAMATAと違うところは、ドン・マッカランは、まだ現実世界に存在しているので、この映画の製作総指揮を務めるのだという。しかも、マッカランは、アンジェリーナが監督したカンボジアの映画「最初に父が殺された」を見て、当時のカンボジアをなんて正確に力強く描いているのだろうと大変感銘を受けたのだという。

 ユージンスミスのことは、わりと知られているが、写真関係者でもドン・マッカランのことを知らない人は多い。

 昨日、ユージンスミスと桑原史成さんの写真について、西欧の明晰さを追求する姿勢と、日本の含みを大事にする姿勢ということを書いたが、ドン・マッカランは、ユージン・スミスよりも、明晰さに対しては冷徹すぎるほどであり、日本人の心ではついていけないところもある。しかし、そこまで徹底されていることで、日本人が含みを隠れ蓑に、見ようとしないもの、見たくないものを眼前につきつける。

 どんな映画になるのか、期待したい

 

 

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