第1181回 ハリウッドのMINAMATAと、石川梵が一人で作った「くじらびと」の差異。

映画「MINAMATA」を観た人は、ぜひ、石川梵製作の映画「くじらびと」を観て欲しい。

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 私が、映画MINAMATAについて、あまりにも無防備に絶賛する人に対して懸念を覚えるのは、映画MINAMATAの手法が、ポピュリズムの常套手段であるからだ。

 人々を扇動して、一方向へと向かわせる時に、この手法が用いられる。9.11の後のアフガン侵攻を、アメリカ国民の大半が熱狂的に支持したことも、そこに含まれる。

 ポピュリズムに簡単に巻き込まれてしまう人は、私が、いくら書きつらねても、言葉が届かない。なぜなら、そういう人は、キャッチフレーズのような言葉の影響下に置かれやすい。

 私が意識しているのは、ごく限られた人で、映画MINAMATAについて違和感を抱いている人たち。といって、その人たちと一緒になって、酒場で悪口を言いたいわけでもない。

 その限られた人たちに向けて言葉を連ねているのは、映画MINAMATAに違和感を感じている人の中からしか、新しい表現の道は切り拓かれないのではないかと思っているから。

 今だにポピュリズムの流れに乗ることが、アーティストとしてのポジションを上げることにつながると思っている自称表現者はとても多い。

 そのスタンスが、偽りや欺きの原因になる。ユージン・スミスという表現者は、そうしたポピュリズムを、もっとも憎んでいたのに、MINAMATAのヒーローに祭り上げられた。

 前回の記事でも書いたが、世の中の様々な問題は、特定の悪人の仕業ではなく、偽りや欺瞞が寄せ集まったものによって起きており、だから表現者は、偽りやごまかしが表現に入り込むことがないよう、信念と用心深さを簡単に手放してはいけないと思う。

 この時代に、ポピュリズムになびいて表現をしたり、その表現を賛美するなどというのは、まったく時代遅れで、かつ逆のベクトルだ。

 そういうものは、もはや人を動かす力のあるポピュリズムですらなく、ただの消費財にすぎなくなっているという自覚も必要だろう。

 その意味で、現在の表現は、荒涼たる砂漠であり、だからこそフロンティアでもある。 

 そのフロンティアを切り拓く可能性の具体的なものの一つとして、私は、石川梵が製作した「くじらびと」を勧めたい。 

 映画MINAMATAに少しでも違和感を抱いている人は、この「くじらびと」を見ることで、もう少し、違和感の正体に気づくかもしれない。

 それは、「リアリティ」をめぐる問題だ。

 「くじらびと」と、MINAMATAは、違いがたくさんある。

 MINAMATAが、「事実に基づくフィクションである」と言っているのに対して、「くじらびと」は、「できるだけ誠実に事実に迫ろうとしたノンフィクション」である。

 MINAMATAが、水俣ではなくセルビアモンテネグロで製作しているのに対して、「くじらびと」は、偽りのない現地であり、実在の人物がそのまま登場する。観る人を感情移入させるために、偽りのヒーロー像を仕立て上げたり、嘘のストーリーを挿入していない。

 MINAMATAが、水俣に縁もゆかりもなかった監督とか有名俳優が、特定の人物から話を聞き、それをもとに短期間でアウトラインを作り、わりと短期間に作ったのに対して、「くじらびと」は、長い歳月のあいだ、製作者が、現地に何度も足を運び、現地の人々とのあいだに信頼を育み、その人たちを決して欺きたくないという誠実な気持ちで作られたものである。

 そして、決定的に違うのは、「MINAMATA」が、組織的に作られたものに対して、「くじらびと」は、全て一人で作ったものであること。

 構成も編集も撮影も何もかもすべて、一人。鯨と村の人々が、ともに息絶え絶えになるまで闘う場面、船の上からと空の上からと水の中からのシーンがあるが、その全てのシーンが、一人で撮影されている。ドローンなどの最新機械を駆使して。よくもまあ、狭い船の上、村人たちが死闘を繰り広げる中、撮影したり、水の中に飛び込んだり、ドローンを操縦できたりしたものだ。私は、てっきり他の船を用意して、そこからアシスタントが撮影しているのかと思っていた。

 しかも、フィクションのように、いつ、その撮影を行うかあらかじめ予定が立てられるものではなく、何日も、何ヶ月も、何年待っても、その瞬間に立ち会えるかどうかわからないシーンである。

 まさに、天の思し召しとしか言えないが、対象に誠実に向き合い続けることで、そういう奇跡は降りてくるのだ。すべて一人で行なっているという集中のなかで、感覚が鋭敏に研ぎ澄まされ、理性を超えた領域にアクセスすることがある。

 本物の物作りというのは、筋書きにそって作っていくのではなく、そうした理性を超えた領域にアクセスすることで初めて可能になる。日本古来の匠の技というのは、そういうものだ。自然を読む力、近未来を察する力、過去と現在のつながりを洞察する力などを、人間は完全に失っているわけではない。

 そのようにして作られた石川梵の「くじらびと」だが、かつてのように一人でカメラを回しましたという類のノンフィクション映画のように、個人的な世界の範疇を脱せず、小さなスペースで内輪の人々だけで鑑賞するようなものではなく、MINAMATAを上映した同じ劇場で、MINAMATAの後に観ても、まったく引けをとらない、むしろ大画面であればあるほど、その圧倒的な力に飲み込まれるような映画になっている。

 そして、この映画、製作だけでなく、その後、映画を公開にこぎつけるための様々な努力、配給や、セールスプロモーション、資金調達まで、ほぼ一人でやっている。

 そういうことが可能になった時代に、私たちは生きているという見本である。

 そのように作られた映画は、全世界の配給力や観客動員力では、ハリウッドに対抗できなくても、内容的には、ハリウッド映画の欺瞞性や、その限界を実感させるものになっている。

 石川梵は、特別に恵まれた条件(いいところのボンボン)の人間ではない。

 写真家として、長年、活動してきたが、2000年代、魂の抜け殻のような長いスランプの時もあった。

 彼が、劇的に復活したのは、2011年の東北大震災の時だった。震災直後、誰よりも先に、セスナを飛ばし、その後、オートバイを走らせ、現地を取材した彼の瞬発力には、本当に驚かされた。その前に会った時の、どこか焦点が定まらない表情が記憶に残っていたからだ。居眠りをしていた彼を、カミサマが、ビンタでもしたのだろうか。

 おそらく、長いスランプの時は、何かを溜めていたのだ。そして、スランプは、売れるとか売れないとか、世間で受けるとか受けないとか、そんな世俗的な理由ではなく、魂の燃焼に関わる問題だったのだと思う。

 2011年の東北大震災は、そんな彼の魂を着火した。その後に起きたネパールの大地震の取材と映画化、そして、長いスランプに陥る以前、一つの達成として作り上げていた自らの写真世界「海人」の舞台を映画化する一人プロジェクトに邁進した。

 そのように完成したこのたびの「くじらびと」は、表現のフロンティアの大きな風穴となるだろう。内容が素晴らしいかどうか、好きか嫌いかと、酒場で議論しておしまい、という人が大勢いてもかまわない。

 しかし、上に述べたような方法で、これほどまでの映画が作れるという見本は、表現に携わっていこうする者に、何かしらの希望を与えることは間違いないだろう。

 それは、何も映画表現に限ったことではない。私は、現在、1人で写真も文章も編集もデザインも販売もすべて行う「SACRED WORLD」のプロジェクトを、風の旅人の50号の後ろにつなげる気持ちで、地道に細々とやっている。

 私にとって風の旅人は、森永純の「ドブ川」であり、SACRED WORLDが、森永純の「WAVE」なのだ。

 森永純のドブ川は、われらの時代(近代)の根元にあるものを極限まで凝縮したものであり、だから、ユージンスミスは、これらの写真を観た瞬間、号泣した。

 「われらの時代」の根元を掘り起こす仕事の後、心は、「われらの時代の現象」にとらわれなくなる。だから、その現象について何かをやろうという気になれず、森永純は、「WAVE」という宇宙の根元を極限まで凝縮したビジョンに、亡くなる直前まで没入した。

 このようなことは、他の誰かに説明して伝わるようなことではなく、当事者か、当事者の内面がわかる者にしかわからない。

 だから、森永純の WAVEの写真集は、私が作って自分で販売することになったし、私のSACRED WORLDというビジョンも、どこかの出版社の担当者と会って話したところで、理解してもらえないし、売れないと言われるだけだから、自分でやるしかない。そして、石川梵の映画が良い見本だが、自分一人で、やろうと思えばできる時代なのだ。

 その一人で作り上げた「くじらびと」は、私の眼には、ハリウッドの「MINAMATA」を作品力や表現力において凌駕している。

 「MINAMATA」について、インテリ層に属する人が、エンターテイメントとしても楽しめて、水俣のことを知るきっかけになる良い映画だと、不可思議な褒め方をする。 この映画が「水俣のことを知る映画」だとは言えないことくらいは、よほどの無知と鈍感者でなければ何となくわかるので、「知るきっかけとなる」などという逃げ道を作っているのだ。

 しかし、石川梵の「くじらびと」を観て、「インドネシアのラマレラの村を知るきっかけになる映画」という言い方をする人はいないだろうと思う。これを観ることじたいが、リアルな体験であり、”知る”というのは、知識を得ることではなく、リアルに体験することなのだ。そのリアリティを伝える力が、表現力や作品力なのだ。フィクションとかノンフィクションというのは手法の違いにすぎず、本質は変わらない。

 私が MINAMATAのことについて書き連ねた言葉を通して、「実際起きたことを表現のなかに組み込む時、当事者への配慮をどうするか、それも含めての表現力なんだろう」という反応をいただけたが、配慮の深さこそが、表現の深さに反映される。配慮の対象は、人とは限りない。そのことがわからず、自己表現にしか意識がいかない人は、その対象をただの素材と見てしまう。

 いずれにしろ、長いものに巻き込んでもらうために欺瞞を差し込んだり、誰かに媚びたり、迎合したり、妥協したり、認められないからといって塞ぎ込んだりすることもなく、自分の心に偽りなく、対象に対してひたすら誠実に取り組みながら、自分なりの表現を模索し続けることが、可能な時代になっている。

 右も左も行き詰っているような閉塞感が社会を覆っていると感じている人が多いが、それは、従来のやり方にしか目がいかず、そのなかで、何かをやり遂げたいなどと安易に思っているからだ。

 安易な方法で、自分の現状を打破したいと願う人ほど、ポピュリズムに流れやすく、その仕掛け人の欺瞞の餌食になる。

 誠実に守るべきことと、大胆に変えていくことの見極めが、とても大事な時代だと思う。

 

 

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