第1184回  水俣やユージン・スミスのリアルと向き合うことは、近代の問題と向き合うこと。

 私が映画「MINAMATA」のことについて書くことに対して、「佐伯さんは、一般大衆に期待しすぎ」と、なんとも不思議なコメントをくれる人がいる。

 一般大衆の定義がよくわからないが、期待しても、何にも変わらないよ、という程度の意味だろうか?

 私がしつこく書いている理由は一つだけで、水俣で起こったことの本質は、近代文明が損ない、蝕み、破壊し、分断してしまったものの問題だと思うから。

 石牟礼道子さんが、苦海浄土をはじめとする文学の中で示しているのは、その問題であり、そのことについて石牟礼さんは、人間という言葉を使わず、「生類の命と、大調和の世界」と述べた。近代の深刻な問題を深く掘り下げているからこそ、石牟礼さんが水俣を舞台にして創造した「苦海浄土」は、20世紀に書かれた文学の中で、もっとも重要な文学なのだと思う。石牟礼さんの表現に触れたことのある者なら、それがわかるだろう。

 なのに、映画 MINAMATAが、事実を矮小化しているにもかかわらず、水俣の問題に目を向けてもらう良いきっかけだとか、フィクションだから限界がある、仕方がない、などと言う人がいるが、そうではなく、もう少し問題の本質を掴んでいれば、フィクションであっても十分に水俣やユージンスミスの本当のことに近づけただろうし、水俣に目を向けてもらうにしても、もっと大事なことに添って、伝えられた。

 具体的には、第1183回のブログで書いた、ユージンスミスと水俣の関係における本当のことに添って脚本を描くならば、冒頭のシーンは、酒浸りで、太平洋戦争がトラウマになって日本に行くことに拒否感を示すユージンスミスというように、嘘のストーリーをでっちあげる必要はない。

 1960年代にユージンスミスが、日本に興味を持って旅した時の成果、写真集、『JAPAN … A CHAPTER OF IMAGE』のイメージにそったシーンを、そのまま冒頭に入れればいいのだ。

 この旅のなかで、ユージン・スミスは、日本の漁村に憧憬に近い思いを抱くことになった。

 それはおそらく、日本の漁村に、近代化で蝕まれていないものが残されていたからだ。それは、現在公開中の石川梵監督のドキュメント映画「くじらびと」のラマレラ村と通じる世界。

 いくら世界が近代化されようとも、漁師の暮らしは自然との付き合いであり、人間中心の発想ではうまくいかない。自然を大切にし、自然を畏れ、その恵みに感謝することが、ふつうに行われている。

 そして、漁師たちの身体や顔の表情には、厳しい自然のなかで磨かれていく美しさが刻まれている。

 石牟礼さんの文学からは、そうした漁師の真の姿が、心に強く迫ってくる。

 ユージン・スミスも、そのことを十分に知っていたのだから、映画でも、それをそのまま描けばよかった。

 また、ユージン・スミス水俣行きを提案したのが、映画 MINAMATAの中では、アイリーン・スミスになっており、それに対してユージン・スミスは、太平洋戦争のトラウマで日本になんか行きたくない、という状況設定をしているが、あんな嘘は必要なかった。

 実際は、ユージンスミスは、彼の言葉によれば、1960年代前半の日本の旅で、「用心していたにもかかわらず、日本の虜になっていた」のであり、彼にとって愛着のある日本で写真展を開催することを望んでいた。

 そのことを、ニューヨークにやってきた元村和彦さん(森永純さんの友人)に相談する。その時、ユージンスミスの社会的な問題意識と、日本の漁村への関心のことを森永さんから聞いていた元村さんが、ユージンスミスに水俣の写真を見せる。その写真を見て、ユージンスミスは衝撃を受けて、水俣の取材を行うことを決意する。このように事実に添った展開の方が、より深い話になった筈だ。

 そしてユージンスミスが水俣に行ってからの話でも、チッソの社長による賄賂の話や仕事場の火事といった嘘のストーリーは必要ない。

 とくにひどい作り話が、ユージン・スミスの病院への潜入。

 映画のなかでは、ユージン・スミスチッソの経営する病院に医者の変装をしてもぐりこみ、会社お抱えの医者の研究資料を盗写するというシーンがある。

 チッソの流す廃液が水俣病の原因であるということを突き止めるための証拠探しというシーンだ。ユージンスミスが、「工場排水が原因ではない」と主張するチッソの噓を暴いたかのように、映画を観る者は思う(親に連れられて観た子供も)。

 しかし、ユージン・スミス水俣に来た1971年の時点ではすでに、厚生省が、「熊本における水俣病は、新日本窒素肥料水俣工場のアセトアルデヒド酢酸設備内で生成されたメチル水銀化合物が原因である」と発表(1968年9月)し、焦点は、患者への補償にうつっていた。
 この映画で使われているシーンを実際に行なったのは、1962年、東大の院生だった宇井純と、報道写真家志望の若者だった桑原史成である。
 サンデー毎日の取材に対して、桑原さんは答えている。 

「宇井さんから、一緒に水俣に行きましょうと、と言われた。しかし実際に病院に行ってみると、細川先生は、退職していたことがわかった。それで、細川先生の後任の若い医者が対応したんです。当時東大の学者はチッソの味方だったりしたので、『東大の宇井です』というとすっと入れてしまったんです。

 若い医者は『会社には秘密にしろと言われている』と言いながらもファイルを開いて結構話をしてくれました。そうしたところ『先生電話です』と看護婦が呼びに来て、若い医者は席を中座したんです。そうしたら宇井さんがさっとファイルを手許によせてパーッと見て、あるページから『接写してみて』という。1ページ、ワンシャッターで接写していった。17枚とり終わったところで、足音が聞こえて先生が帰ってくるのがわかった。それでファイルを元の場所に戻したんです」

 ファイルには、工場の排水をネコに飲ませて完全な水俣病の症状が出たことや、排水を濃縮していくと有機水銀の結晶が出て、それを混ぜた餌をネコに食べさせると、やはり水俣病が起こることなどが記されていた。熊本大学の研究班は、海水や魚、動物などの有機水銀の蓄積量を調べて有機水銀説をとなえていたが、肝心のチッソが協力してくれないので、工場排水をとることができないでいた。つまり、これは決定的証拠だった。

 映画「MINAMATA」は、アメリカ人フォトジャーナリストのユージン・スミスや、アメリカ国籍のアイリーン・スミスが日本にやってくるまでは、日本のフォトジャーナリストや、研究者は、何もやっていなかったかのような描き方をしているが、ユージンスミスが来る9年も前に、水俣病の真実を追求しようとしたいた日本人はいたのだ。

 さらに、この映画の中で重要なのは、宝子ちゃんの入浴シーンを撮ることになる前の、水俣の住民に、家の中の取材を依頼するところだ。

 あのシーン、悪役のチッソと戦うための踏み絵のような意思確認で、住民が次々と手をあげていくという、陳腐な感動シーンになってしまっている。

 しかし、本当はそうではない。あの住民の中に、「私は、チッソで働く身内がいるので、協力はできない」という人がいなければ嘘になる。 

 実際に、子供はチッソ関連会社で働き、親が水俣病の患者となり、親子で分裂して自殺にまで追い込まれた家族もある。

 フィクションだからといって、その事実を隠してしまう必要がどこにあるだろう。そういう分裂の現実を受け止めたうえで、ユージン・スミスは、宝子ちゃんの入浴シーンを撮ったはずだ。

 なので、抗議行動の時に受けた傷のためシャッターが押せないという嘘の状況設定で宝子ちゃんの撮影シーンを作る必要はなかった。

 むしろ、撮るべきか、撮らぬべきかの葛藤を示せた方がリアリティがある。そうした葛藤があれば、アイリーンスミスが宝子ちゃんの手や足を動かしてポーズを作るというドキュメンタリー写真家を冒涜するようなシーンを作ることにはならなかっただろう。

 そして、宝子ちゃんの入浴シーンに至るまでに、村人が集まった時に、撮影の意思確認をして手を挙げてくれたから撮るという深みのない状況設定ではなく、桑原史成さんの写真に見られるような、宝子ちゃんや上村家族との信頼関係を育んでいくシーンが必要なのではないか。そうしたリアルなシーンの方が、偽の火事とか、賄賂より、よっぽど重要だ。宝子ちゃんにも、上村一家にも、ふつうの日常があったのだから。

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(桑原史成さんが撮った宝子ちゃん。こういう和やかな時間もあったのだ。)

 そして、ユージンスミスが抗議運動を取材している時に負傷するシーンを、映画では、入浴シーンの感動を高めるために時期を変えてしまっているが、史実どおり、この入浴シーンの後で何も問題なかった。

 いくら感動的な入浴シーンの写真が撮れ、それが世界に発信されようとも、簡単に変わらない現実があるのだから、それをそのまま示せばよかった。

 一枚の決定的な写真がチッソの社長の心を動かし、水俣病の被害者に保証金を払う決断をさせるというラストの展開は、ハリウッド映画の陳腐なラストシーンと同じだ。

 簡単に変わらない現実は、なにもチッソが罪を認めないから、というだけのことではない。

 同じような問題が、他にも数多く発生しているのは、悪徳企業が多い、というだけの理由だろうか?

 原発も含めて、悪徳企業とみなされる企業は、なぜ存在しているのか? 公害問題に関係する悪徳企業のほとんどが、単なる営利追求企業ではなく、国策と関わる企業体だ。

 国策というのは、利権が絡んでいるが、利権だけでなく、国民の生活もからんでいる。国民の生活がからんでいるからこそ、補助金その他で政治との関わりが生まれ、そこに利権の問題が発生するのだ。

 国民の生活というのは、我々一人一人の、近代的生活のことである。

 だから、水俣問題は、他人事ではない。

 フィクションであっても、こうしたリアルな筋書きを作ることに大して労力はかからない。

 ゆえに、フィクションだから限界があるという言い方は間違っており、正しくは、商業映画だから、できない。それだけのこと。なぜなら、商業映画は、近代生活と切っても切り離せない娯楽分野だからだ。

 映画MINAMATAが、水俣やユージンスミスのリアルからは遠い嘘だらけの映画になっている理由は一つ、娯楽映画だからである。

 そして、私が上に示したリアルな展開によって、MINAMATAの映画と大きく異なってくるのは、アイリーン・スミスの位置付けだけだ。

 そこに、スパイ映画のように、観るものを映画に引き込むために、ステレオタイプにヒーローとヒロインを設定するハリウッドの意思が働いているのか、情報提供者のアイリーン・スミスへのハリウッドの配慮なのか、私は知らない。

 いずれにしろ、あの入浴シーンの写真使用をめぐる不信なやり方を含め、石牟礼道子さんが生きていたら、おそらく、「この映画が、水俣のことを少しでも知ってもらう良いきっかけになる」などとは言わないと思う。

 行政責任のことにはまったく触れず、一企業だけを悪人集団に設定し、それと戦う正義のヒーロー物語という設定は、現在の水俣を分裂させ、水俣以外の人々においては、近代の問題から目を逸らさせるものでしかなく、それは、石牟礼さんの文学や、その影響を受けて、水俣問題と向き合っている人たちの魂とは、かなり隔たりがあるように思う。

 私がこれだけしつこく書き続けているのは、単に映画「MINAMATA」の悪口を言いたいからではなく、近代の歪んだ問題が、この映画の周辺に分厚く蓄積しているように感じるからだ。近代化によって失われた魂は、まずそのことに自覚的になることでしか、蘇生できない気がする。 

 水俣の問題は、水俣地域だけの問題ではない。水俣からそれほど遠くないところに英彦山という古来からの聖山がある。その西麓は、近年、集中豪雨などの被害が大きい朝倉などの地域だ。現在、この聖山は荒れている。自然環境だけでなく、その聖性においても。

 日本の荒廃の象徴のようだ、と考える人もいる。

 日本は、蝕まれている。その一番大きな理由は、過去との断絶だ。文化的にも、意識的にも。そして、それは魂という目に見えないものと関係している。

 石牟礼道子さんは、市民活動家の方に、「なぜあなたは目に見えないものを信じるのか?(そんなもの意味ないだろ)」と言われ、びっくりしたと述べている。 

 人間も含めて生類で、生類すべての魂があると信じていた石牟礼さんは、その魂の存在を否定したうえでの市民活動に、戸惑いを感じていた。

 日本の古来から連綿と伝えられてきた魂をつなぎ直すことでしか、近代の問題は修復できない。

 石牟礼さんの意思をそのようなものとして受け止めている私は、だからこそ、今、「Sacred world 日本の古層」というプロジェクトに取り組んでいる。時を超えて、世代を超えて残り続けていく聖なるものの気配は、私たちの周りから完全に失われたわけではないということを示すために。

 目に見えないものが信じるに値するものだと、少しでも感じる人が増えていかなければ、水俣問題だけでなく、近代の様々な問題は、さらに深刻になっていくばかりだと思う。

 

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