フランスのテロ事件で銃撃された週刊誌シャルリエブドが、今日、イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載した最新号を発行した。銃撃テロのすぐ後から準備に入り、国内外のメディや団体から資金援助を受け、通常は5万部前後の発行なのに、国内外からの注文を受けて300万部刷ったという。
あれだけの影響のあった事件に対する対応なのだから、もう少し熟慮して、色々なことに配慮して策を練る必要があるのではないか。急いて事を起こす必然性がいったいどこにあるのか。事件が旬なうちにという不謹慎な意識が働いていないかと勘ぐってしまう。
こうした行為は、私にはまったく解せない。私もちっぽけな雑誌媒体を発行しているが、「表現の自由」というのは、こういうことなのだろうか。自由というのは、個人がやりたいことをやることなのだろうか。
もちろん、侮辱されたことに対する怒りで人を殺す行為が許される筈はないが、自由が他人に対する配慮を欠いても許されるものならば、そんなものは、大して価値があるとは思えない。
自由という言葉が一人歩きして、「言論の自由を守る」という、だれも異議を唱えにくい一種のイデオロギーのまえで、人びとは、思考停止状態に陥っているのではないだろうか。
そもそも自由というのは何なのか。
自分の尊厳を守るために抵抗する人間の信条が自由だと思うが、他者が大事にしているものを侮辱する表現を行なうことが、自分の尊厳に関わってくる大問題なのだろうか。
自分の母語を使うことを禁止されれば、自分の尊厳をかけて自由の為に抵抗する。
自分が信じる宗教を禁止されれれば、自分の尊厳をかけて自由の為に抵抗する。
ということならわかる。なぜなら、それらは、自らの信条に関わってくることだからだ。信条は、自分がなぜこの世を生きているかの拠り所でもある。それを失えば生きる価値がないと思えるほどのものである。人によって、それは違う。だから、他人の信条をあれこれ言う資格は誰にもない。それが、自由を尊重するということだ。
しかし、今回のケースでは、自由それ自体が強固な信条になってしまい、その中身が問われなくなっている。
他者を揶揄したり侮辱したりすることも含めて、自由ということでいいのか。
そういう横暴な考えと態度は、揶揄されたり侮辱されたりする側の、自らの尊厳を守るための抵抗を呼び起こすだけではないのか。
その抵抗が、あのような殺人につながってしまうことは最悪のことだと思うが、そもそも、ひとへの思いに欠けた表現の氾濫状態を表現の自由だと主張する表現界を、私は信じることができない。
他者に対する配慮が欠けた行為の数々によって、人間界には軋みが生じ、争いが頻発し、争えない人達のなかにストレスが蓄積し、そのストレスが様々な歪みを生み出している。そうした生きにくい世の中を少しでも良い方向にもっていきたいという思いで、表現というものは行なわれるべきではないのか。
表現者自体が、そうした軋みを増長させてどうするのだ。
「テロに屈しない」という言い方は勇ましい。しかし、逆の立場からは、「侮蔑に屈しない」という論理が成り立つ。そして、力が弱い方は、まともにぶつかっては勝てないとわかっているから、捨て鉢の行動をとり、より過激になっていく。
イソップ寓話の「北風と太陽」の喩えのように、力づくで押さえつけようとすればかえって反発を強めるだけなのだ。
北風の論理を正義だと主張するかぎり、テロは止まらない。
危機に際して、器の大きな人は、敵対する者との緊張を緩和する方向へと冷静に努めるものだが、器の小さな者は、緊張を増す方向へと人を導きたがる。緊迫した状況の方が、自分のことを勇ましいヒーローのように見せられるからだ。
しかし、敵対するものとのあいだに緊張が増せば、ちょっとしたきっかけで争いが起きて、大勢の人が犠牲になる。
器の小さな者の、自分に酔ったヒロイックな煽動に乗せられてはいけない。
器の小さな者をリーダーにしてはいけない。
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