*第952回 何度見ても、気にかかる写真

 鬼海弘雄さんの写真集「TokyoView」が完成して、発送作業に追われている。(写真集の詳細はこちら→http://www.kazetabi.jp/
 この写真集の制作には2年かけた。それだけ拘るに値する写真ばかりだからだ。
 最初の1年で写真の選択と組み方とレイアウトとデザイン。そして、印刷会社に写真を入稿して写真分解を始めたのが、2015年の正月明けだった。そこからが大変で、鬼海さんがハッセルブラッドで撮影した街の写真のディティールの繊細さ、階調の豊かさを印刷で表現することは、とてつもなく難しく、写真分解を何度も何度もやりなおした。しかも、ディティールの豊かさを伝えるために超大型の判型でデザインをしたので、その分、拡大率が高まり、粒子の粗さが目立ってしまった。白と黒のコントラストを強調してザラザラとした粒子で見せる表現の場合は、ごまかしがきくが、鬼海さんのプリントは、シルクのように滑らかなので、粒子の粗さは致命的だった。
 途中で何度やってもうまくいかないと悟り、印刷用紙を見直すことにした。マット紙の方が高級感と上質感は出るが、若干、インクを吸ってしまうために、何段階にもわたるグレーの微妙な階調が出てこない。インク乗りのいいグロス系の紙で高級感と上質感を損なわない紙を選択した。それでも、紙のピカピカとした反射は安っぽくなるので、ニスを厚めに乗せることでその欠点を補おうと考えた。最後に、そのニスの色もやり直しをするはめになり、二週間ほど納期がずれこんだ。
 そして、印刷は、鬼海さんの情報量豊かな写真の再現のために、当然ながらハイビジョンテレビや4Kと同じように、高精細印刷でやらなければいけない。
 しかし、高精細印刷というのは、校正刷りも印刷の本機で行う必要があり、全てのページの校正刷りを行うと、校正代だけで桁外れのコストになる。ましてや、厳しい鬼海さんの目で見て校正が一回で終わることはありえないので、校正のたびに莫大なコストが上乗せされることが予想され、おそろしくて手が出せない。
 そのため、高精細印刷の校正確認は一折り分(16ページ)だけにして、それ以外は通常校正を行い、高精細印刷の校正を行う16ページは通常校正も出して、その2つを見比べることで、高精細印刷の校正を行わないページの最終仕上がりを想像するという方法をとった。リスクはあるが、そうでもしないと、価格が10,000円に抑えることができなくなる。
 それが何とかうまくいって、この写真集の仕上がりを見た人が、10,000円では安いと言ってくれるものになった。
 写真集の10,000円は、一般的な通念から言えば高い。しかし、その仕上がりで、オリジナルプリントに負けないくらいのものにすれば、オリジナルプリントは数万円から数十万もするのだから、1万円では安いと感じてもらえるだろう。実際に、あとから2部追加購入をして、一部は額装用、一部は保存用、もう一部を普段見るためのものにすると言っている人もいる。
 自分で言うのもなんだが、写真と真面目に取り組んでいる人は、鬼海さんの写真を通じて学ぶところが多くあるだろうし、写真集の制作を考えている人は、現代、このくらいの価格で実現し得る1つの極点として、この写真集は、きっと参考になると思う。
 そして、私自身も、ほぼ毎日のように、この写真集を見直している。2年に渡って制作し続けてきたので、見飽きるくらい見ている筈なのに、まだ飽きない。何度見ても、飽きない写真。そういう写真は、めったにない。
 何度でも見るのは、気にかかるからだ。気にかかるのは、自分ごとだからだろう。でもなぜそれが自分ごとなのか、自分でもよくわからない。だから、飽きずに見続けてしまう。
 理由はよくわからないけれど、なぜだか気にかかる。心が惹かれるのは、そういうものである。
 コンセプチュアルな表現とか、社会問題を取り扱った表現というのは、だいたいにおいて、1度見れば、それっきりである。あらかじめ定められたコンセプトや社会問題が、表現のゴールになっていて、あとは、その処理に仕方で競い合っているだけだからだ。それは、同じことを違う言い方で言い合っているだけのこと。表現の自由を主張してはいても、物事の認識において、不自由を感じてしまう。
 鬼海さんが撮る写真は、奇をてらったところがまったくない。撮られている対象も、ごく当たり前のものである。鬼海さんは、その当たり前のものを、撮影という手段で、強いこだわりをもって丁寧に拾い集めている。そして、どんなものでも丁寧に対応されたものは、命の輝きを帯びてくる。命は、全てに行き渡っているのだけれど、丁寧に対応されなければ、命は、隠れてしまう。
 下駄箱にしまいこんだ革靴を丁寧に磨けば、生き生きと輝くのと同じで、どんなものでも付き合い方次第なのだ。
 表現は、命の抑圧に対して戦う手段であるが、命に対する配慮が十分になされていないものは、命の抑圧を増殖させるだけだ。
 損なわれたものや抑圧されたものを見せつけて命の尊厳を説くことは誰にでもできる。難しいのは、普通に存在しているものを通して、どんなものにも命が通い合っていることを実感させることである。鬼海さんは、人を真っ直ぐに撮る場合も、人の暮らす壁を撮る時も、そこに通い合っている命を見ている。自分が相手と命を通わせないかぎり、その命は見えてこない。
 表現は自由でなければならないけれど、その目的は、そんなに多くは必要ない。世知辛い世の中で、見失われがちな命への気づきを与えてくれればいい。気づかせてもらえれば、あとは自分の方法と、自分の時間軸で、命の手入れを行っていけるだろう。鬼海さんの写真が、何度見ても飽きず新鮮なのは、見るたびに、新たな命の気づきがあるからだろうと思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


鬼海弘雄さんの新作写真集「Tokyo View」が、完成しました。
詳しくはこちらまで→