第929回 国家と国民が記号的にひとまとめにされる時。

 テロの後の一人ひとりのフランス人の声。恐怖、哀しみ、怒り、馬鹿やろう、そして寛容・・・ 
 テロでなくなった方や、その友人や身内の方で、ISを恨み、ISへの報復だけを求めている人は当然いるだろうけれど、パリが狙われる原因を作ったフランス国家を恨んでいる人もいるだろうと思う。
 たとえば安倍首相がシリアへの空爆自衛隊を参加させて、その結果、東京でテロが起きて自分の友人や子供が亡くなることを想像する時、私はISを恨むだろうけれど、同時に、安部首相をも恨むと思う。(実際に、ISは世界中どこでもテロを起こせる自信を持っているし、その自信は事実に裏付けられているのだろうと思う)
 そういう極悪な存在だから壊滅させなければならないという気持ちはわかるが、倒そうとしている相手は特定国家ではなく、世界中に張り巡らされた膨大な個人や小グループの複雑なネットワークになってしまっているので、もはや力ずくで壊滅させられる類の組織ではない。
 パリ、ベイルートアンカラ、そしてシリアやイラクでの空爆、テロと国家の双方が正義を主張する原理主義の戦いによって、ものすごい数の人が巻き込まれて亡くなっている。そういう争いに対する批判、怒りや哀しみをどう表現するかは、もちろん人それぞれの自由かもしれないけれど、もしも自分や自分の知り合い、身内、友人が巻き込まれた時は、その死を日の丸で象徴されたくないと思う。
 自分と関係ある一人ひとりの固有の個人の死を数字に置き換えられたくないし、それ以上に、もしもその死が日の丸を通して表現されたりすると、私は、なんともやりきれない気持ちになるような気がする。ISが憎いのは当たり前だが、その時、日本国に対する恨みもあるような気がするからだ。哀悼の気持ちを寄せていただくことには感謝しても、それがゆえに、国旗ではなく他に方法はないのかと、忸怩たる思いになるだろう。
 もちろん、この感覚は、日本国家やフランス国家への帰属意識の強さによって違ってくる。
 SNSなどにおいて、テロで亡くなった方への哀悼の気持ちをフランス国旗で表すことに対して、ならば、フランスやアメリカの空爆で亡くなった方への哀悼はどうなのだと違和感を訴える人がいて、その調停のように、それは人それぞれの気持ち次第で、フランスへの親しみが強ければ、フランス国旗で哀悼を示すのは自然なことと言う人もいる。哀悼の気持ちを国旗で示す人は、その人の自由なのかもしれないけれど、ならば哀悼される側も人それぞれの思いがある筈で、国家シンボルで哀悼なんかされなくない、くそくらえだ、という人もいるかもしれない。少数かもしれないけれど、そういう人たちの微妙な気持ちに対する配慮はどうなのだろう。数が少なければどうでもいいのだろうか。
 気の弱そうなフランス大統領が、ここぞとばかりにいきりたって、報復を宣言しても、もうやめてくれと嘆く人もいるかもしれないが、国家シンボルで何かを表現することは、そうした人それぞれの異なる思いを一緒くたにして、ひとまとめにして、熱狂のなか強引に押し流してしまう。
 フランスを本当に近い存在に感じる人やフランスに友人がいる人は、今回のテロでフランスの具体的なシーンや友人の顔を思い浮かべても、そこにフランス国旗を重ねないのではないだろうか。フランス文化が好きでも、フランス国家はあまり好きでないという人は、フランスのことをよく知っている人ほど多い。
 今は激しい悲しみや怒りによって、熱狂的にISだけを憎悪の対象にしてフランスの報復攻撃を支持する人たちも、泥沼化して犠牲が増えると、もういい加減にしてくれという気持ちになるだろう。イラクでも、アフガンでも、そうだった。
 10月3日、アフガニスタン国境なき医師団のスタッフや患者が、米軍の爆撃によって殺された。
「生存者を探すため、燃えているビルを見に行きました。言葉を失うほど恐ろしい光景でした。集中治療室のベッドの上で6人の患者が燃えていたのです。手術室では手術台の上で患者が死んでいました。まさに破壊の中心でした」
「これは狂気です。緊急手術を施して何とか助けようとした医師の1人は事務所の机の上で息を引き取りました。最善を尽くしましたが、十分ではありませんでした。昨夜、医薬品の在庫について話し合った薬剤師も亡くなりました」
「この数カ月、必死に働き、この1週間は休みなしでした。自宅にも帰れず、家族の顔を見ることもできず、爆撃や銃撃によって負傷した人々を助けるために病院で働き続けた同僚が死んだのです」
 2001年の9.11のテロの後、テロとの戦いという大義名分でアフガニスタンへの攻撃が始まってから、長い歳月が経ち、子供を含む多くの民間人が殺されたが、未だに何も解決していない。それどころか状況は悪化しているとしか思えない。
 悲しみや怒りにうちひしがれる時、国家に私たちの思いを代表させてはならないのだと思う。国家というのは、対象をひとまとめにするメカニズムがある。一人ひとりのことはあまり念頭になく、数字の大小とか規模で成果をアピールする。その結果、目的達成のための「不可避な付帯的損害」という言葉で、殺害行為も正当化してしまう。
 呑気な国民は、自分自身や身内が巻き込まれないあいだ、不可避な付帯的損害は、あまり気にかけない。
 国旗というシンボルには、集団による目的遂行のために少数の違和を乱暴に締め出すような威力があり、その単純明快な力を好む人もいるのだが、天邪鬼には、どうにも薄気味悪い。
 テロリストもまた、国家権力と同様、一人ひとりの差異など念頭になく、国家と国民を記号的にひとまとめにして狙っている。



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