偶像化とは、物事を一緒くたにして、本質を見誤ること。

 「表現の自由か冒涜か」という議論がある。自由の為に他者を冒涜してもいいのかどうかという議論だ。しかし、そういう議論に覆われてしまうと、あの風刺画が、その内容を吟味することなく「表現の自由」のイコンになってしまい、殺害された人達が、表現の自由の殉死者になる。そして、聖戦の戦いへと発展してしまう。
 「神聖なるマホメットを冒涜しているから許せない、いやあれは冒涜ではない」という議論もある。「マホメットの品位を貶めているから冒涜である、いやそういうこととは関係なく、偶像化することそのものが冒涜なのだ」という議論もある。
 そこから、「異文化理解の問題、文明の衝突云々」とウンチクを展開し、事件の外側に立って意見をする人もいて、そういう言葉は何かを説明しているかのようであるが、この事態に巻き込まれている当事者にとって何の意味もなさない。また、自分はこの衝突から少し離れたところにいると思っている人達は、文明の衝突現場は危ないから近づかない方がいいとか、自分のところもその衝突による被害を受ける可能性もなきにしもあらず、といったことしか気にしない。
 自由とか人間の尊厳の問題は、自らが生きていくなかで大きく関わってくる問題であり、それに基づいて難しい選択や決断が迫られる可能性もあるのだけど、自分の問題として考えていないと、その時になって自分の判断ができず、結果的に自分の尊厳が失われるということだってある。
 だから、ないがしろにしてはいけないし、報道機関から流れてくる情報や、有識者と言われる人が口にする言葉を無防備に受け取るのではなく、しっかりと吟味した方がいい。
 
 マホメットは、イスラム教徒にとってはまことに神聖なる存在だが、他の人びとにとっては、観念として神聖であることは知っていても、神聖さのリアリティはない。そういう人にとって、マホメットは、イスラム教の記号だ。記号というのは、微妙な差異を削ぎ落して、一緒くたにしてしまう作用があるものだ。
 イスラム教を信仰していない人が、マホメットに限らずイスラム教と縁の深いものを題材にして風刺をすると、それはイスラム教全体を一緒くたにして扱っているということになってしまう。
 一緒くたにされてしまったものは、一つひとつ個別に吟味されなくなる。偏見というものは、そういう一緒くたから生まれるものだ。「ユダヤといえば・・・」、「ジャップといえば・・・」、人間の脳は、どうやらそのように物事を記号化して一緒くたにまとめて整理する特性があるようだ。その方が、個々を丁寧に吟味する必要がなく、楽なんだろう。
 一緒くたにすると楽に処理できていいかもしれないが、一緒くたにされる時の感覚は、一緒くたになった経験がある者ならわかる筈だ。
 学校であれ社会であれ、勢力の強い人達の仲間として一緒くたにしてもらうと、優越感に浸れるかもしれないが、内心ではビクビクしていて卑屈になる。偽りの自分を演じながら仲間はずれにされないかと恐れながら、勢力の弱いグループのなかの人達を一緒くたにして見下している。
 そしてまた、自分と何かしら関わりのある人が悪さをした時や、直接の関わりはないのに出身校が同じだとか会社が同じという理由だけでレッテルを張られ、そういう眼で見られる時の耐え難さ、やりきれなさがある。
 耐え難いだけでなく、差別や暴力など、実際に酷い目にあうことも多い。
 そして、物事を一緒くたにしてしまう癖がついている場合も、物事を吟味する六感が減退し、情報に踊らされたり、先入観によって、手痛い打撃を受けることもある。
 「そういうものだと思っていた」とか「間違いないと信じていた」と言い、「裏切られた」と怒る。いくら怒ったとしても、失ったものは返ってこない。 
 それ以上に、失敗するかもしれないけれど自分でしっかりと吟味して、それが自分に合ったものだった時の悦びを少しずつ忘れていっていることが問題かもしれない。
 見知らぬ町で食べ物屋を探す時に、自分の感覚を総動員して選ぶのではなく、全国どこにでもあるチェーン店のファミリーレストランに入る。そういう行動を繰り返しているうちに、もはや自分で吟味して選ぶという感覚すらわからなくなってしまう。そうなると、食べ物であれ、衣服であれ、持ち物であれ、思想であれ、人にあてがわれたものしか身につけなくなる。自分で吟味することの悦びを知らないと、騙された経験もあまり教訓にならず、また他人の噂を信じて飛びつくということが繰り返されてしまう。
 消費財の回転を早くすることで経済数字を上げることを目標にしている企業や国家は、味のわからない人間が増える方が好都合なのかもしれない。というより、国家も企業も、その中枢部にいる人が、物事を吟味する力を失い、あてがわれたものを体裁よく見せることにかまけているだけの可能性が大きい。
 いずれにしろ、あてがわれたもので身を整えることに慣れてしまうと、このたびの「言論の自由か冒涜か」の議論などでもそうだが、すっきりとする答をあてがわれることを望んでしまい、自分の頭で考えようとしなくなる。
 偶像を禁止したのは、イスラム教だけではない。キリスト教も、仏教だってもともとはそうだ。
 偶像を禁止したのは、その記号的なわかりやすさが、微妙で大切なものを削ぎ落してしまい、実際の体験を積み重ねることでようやく近づいていける真理を歪めてしまう可能性を懸念したからだろう。
 真理というのは、神様の存在とか宇宙の謎といった我々の感覚や経験を超えた形而上学的な難問に対する答ということではなく、どんなものであれ実際に物事に触れた時に得られる言うに言われぬ感覚そのものだ。
 友人から「あんなもの食べ物ではないよ、不味いよ」と聞いていて、おそるおそる食べた鮒寿司が悶絶するほどうまかったという体験は、十分に真理に触れた瞬間だと言える。 
 どういう味だと聞かれてもうまく答えられないけれど、間違いなくあれは美味かった。

 不味いと言っていた友人は、たまたま巡り合わせが悪かっただけであり、それが固定観念になって、鮒寿司全般を不味い食べ物だと決めつけてしまい、自分の人生の悦びの奥行きを自分で狭めてしまっただけだった。(それは私のことだ)

 つまり、真理というのは、「決められた正しい答」ではなく、自分の感覚全体で感じとる納得感だ。
 イスラムの風刺画に限らず、シンボル化によって個別の体験のなかに潜んでいる微妙な綾、味わい深さを台無しにしてしまっているものは多く、そうした遮蔽物によって、人びとは、真理から遠ざけられる。
 四日前のこのブログに書いた源氏物語の件とも重なるが、
 どんな物でも、味のあるものは、気遣いがある。そして、味がわかるというのは、作り手の気遣いがわかるということ。それは、物事の凹凸がわかるということでもあるだろう。 近代の工業社会の様々な歪みの中で苦しめられても、物事の味がわかるようになれば、きっと、苦しみを反転させることも可能になる。苦みの中にうまみを見いだすように。
 現代の工業社会、消費社会は、物事をできるだけ誰にでもあてはまるように均一にそろえて、見た目の色形だけを変えて、味の違いがわかりにくくなるように人を導いているので、それをどう改めていくかが、物づくりに携わるものの課題であり、物作りの尊厳だろう。
 それでもマホメットを用いたあの風刺画は、作り手の気遣いに満ち溢れたものであり、それがわからないのは、それを見る人に味わう力がないからだという言い方も成立する。そのことを、フランス人のエスプリとかを引き合いに説明する人もいる。
 しかし、それは作る人とそれを見る人とのあいだの話であり、表現に用いられている側の者が、酷い扱いを受けていると感じてしまうものは、やはり気遣いがないということだ。
 私も風の旅人を作る際に、もちろん読者への配慮は大事だと思うが(文字の大きさとか)、写真家が、自分の作品を貶められているとか損なわれていると感じてしまうような作り方にならないことを最も注意している。作るというのは、ものを利用するのではなく、ものの力を引き出すことだと思うし、自分が作るゆえに関わるものから学ぶことでもあるからだ。自分勝手な解釈は、亀裂を生み、そのものとの関係が断たれる。それでなくても事細かく分節化され、個々バラバラに分断させられている現代の人間世界で、物作りを通じてそうした傾向を助長するのではなく、関係性の響き合いの美しさや喜ばしさや意外な驚きが世界の中に潜んでいることを伝えるためにものづくりをした方がいいと思うので、必然的に、個々の違いのなかにあるものの力を引き出そうという意欲が湧くし、その力を殺してしまう働き(デザイナーとかにもそういう人がいる。自分のイメージのための材料として写真を切り刻む人が)に嫌悪感を覚える。

 写真を表現の手段として用いるいじょう、写真に対して人びとが抱いているイメージをただなぞったり、写真を辱めるような扱いをすべきではなく、「写真とはこういうことだったのか」と、写真に対する敬意が生じるものでなければならないと思う。写真を貶めるようなものは、それこそ物事の記号化や偶像化に加担することが写真行為であるかのように、自らの写真行為を通じて世に溢れさせている人はたくさんいるのだから。
 いずれにしろ、食材の偽装問題や、放射能風評被害のように、人は簡単に記号化されたものや単純化され歪められたイメージ(偶像)の影響を受けて、先入観を持って物事を差別してしまう。
 欧州で暮らしている多くのイスラム教徒は、人びとのそうした先入観、固定観念を恐れている。イスラム原理主義者の場合は、むしろ、そうした先入観、固定観念によってイスラム教徒と欧米人との間が引き裂かれ、対立の構図を際立たせるほど自らの存在感が高まると考え、それを利用するだけのことだろう。
 いずれにしろ、賢明でないと思う。ホモサピエンスは「賢い人」という意味だが、サピエンスとは、「味わう」とか「吟味する」 という意味でもあるらしい。賢さとは、お勉強ができるとか、物事をたくさん知っていることだけを指しているのではなく、微妙な味の違いがわかること、そして、物事を吟味して判断できるということ。
 人間は雑食であり、食べられるものとそうでないものを見極める力は、いのちを維持していくうえでとても大事だったのだろう。
 テロもそうだけれど、物事を一緒くたにして処理したり乱暴に扱ったりするアクションは、どんなことであれ、自らのいのちをも縮めることになる。

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