これからの時代の働き方?

 最近、テレビでも新聞でも、派遣労働のニュースが伝えられない日はない。
 現在、多数の派遣労働者が失職した背景として、かつては専門職だけに認められていた派遣が1999年に原則自由化され、2004年には製造業でも認められるようになったことが原因として伝えられている。そうした一連の規制緩和を主導したのは産業界で、これにより、派遣による非正規社員は、企業にとって格安な『雇用の調整弁』になり、企業が利益のために利用しているという論調になっている。それに対して、企業は企業で、中国など安い労働力を武器にした国々に対抗して生き残るために、やむを得ないと言う。だから、たとえ製造業の派遣労働を禁止しても、採用の抑制や安い外国人労働者の雇用といった方向に進む可能性があるような気がする。最善の妥協策として、「ワークシェアリング」で、一人一人の給与を下げて、仕事を分け合いましょうということなのだろう。
 しかし、なにゆえに企業が派遣労働を欲し、その規制緩和のために政府に働きかけたかというと、「目先の利益」とか、「国際競争」という単純なことではないように思う。
 製造業の現場では、数年前からコンピューター化やロボット化が顕著であり、その時点の生産体制のために10人の人間が必要であっても、数年後には半分で充分になるといったことが当然予測されていた。その種の仕事のために終身雇用の社員を採用しても、何十年後か先には仕事そのものがなくなってしまうことは誰にも予測できた。
 「今そこにある仕事」を処理することは、今この瞬間は人手が必要だけど、近い将来は間違いなく消滅する。それに対して、新たな仕事を企業側が用意すればいいと考える呑気な人もいるが、企業は特定の天才経営者が企画したり作り出すもので運営されるのではなく、社員一人一人の仕事の集積によって集団全体が糧を得ている。しかし、実際は、どこの現場でも、仕事やシステムを作り出すのは、ごく一部の人間であり、多くの社員は誰かが作り出した仕事やシステムの処理だけ行っている。処理する人間も当然必要なのだが、どこの企業でも、新たに生み出す人間より処理だけ行う人間の方が多すぎる現状がある。さらに、その処理業務が機械にとって変わられると、仕事を作り出さない人は、何もしなくてもよいという状態になってしまう。何もしないくてもよい状態の人の比率が増えると、企業全体が維持できなくなるのは目に見えている。だから、企業は人減らしをする。雇用の調整弁として、派遣労働を利用し、それが出来なくなったら、他の方法を考えるしかない。もちろん、仕事を作り出せる人間を獲得できる可能性にかけて、毎年採用を行っていかざるを得ないが、そのなかにも、最初から「組織にぶら下がる」ことだけを目当てにした人も多い。
 しかしながら、私たちは、今この瞬間の生活の為に、また実力不足の為に、「機械に取って代わられそうな仕事」や、「他人が作り出した仕事やシステム」にぶらさがらずを得なくても、それが将来も安泰に続くことはあり得ないと覚悟して、同時進行で次の準備をしておかなければ、いつか必ず「あなたでなくでもかまわない」の烙印をおされる憂き目に合う。
 準備にもいろいろあるだろうが、たとえば、介護や福祉の現場は、人間にしかできないことがたくさんある。サービス業も、機械化、マニュアル化が進んで、他人に取り替え可能な人材づくりが急速に進んだけれど、そうした「サービス」の味気なさ、つまらさなに、人間がいつまでも気付かないままであるとは思えない。
 コンピューターやロボットにできないこと。他人に取って代わられないこと。「標準」に安易に従うのではなく、(なぜならそれは簡単に裏切るから)、「固有性」を地道に磨くしかないだろう。標準に合わせる方が短期的には結果が得やすく、固有性の強みというのは、すぐに結果が出ない。しかし、時間とともに深まって行くものであるから、長い目で見れば、確実な軌跡になると思う。
 雇用を増やすというのは、仕事を作り出すことだが、短期的な消費の刺激を目的とした「定額給付金」は、問題の先送りでしかない。一過性の消費が仮に行われたとしても、新しい価値観につながっていくものではないかぎり、その瞬間だけの消費者の購買と、企業の売り上げアップで終わってしまう。消費者が、そのお金を貯蓄にまわす可能性が大だし、企業は、一時的な売り上げアップが得られたとしても、上に述べたような理由で、正規雇用を急激に増大することは難しい。
 税金を使うなら、もっとまともな使い方がある筈だ。福祉であれ、農業であれ、人間ならではの力が発揮でき、時間をかけるほどに深まって行く分野の環境を整備すること。また、長い目で見れば、教育にしても、「そこにあるものを処理すること」、「誰かが決めたこと(答)を憶え、素直に適応すること」を優先するような現代のスタンスだと、組織に「ぶら下がる」人間を多く作り出すだけで、新しい仕事を作り出す人間を育てることにつながっていきにくいだろう。
 戦後間もなくの頃のように、進むべき方向性が決まっていて、やらなければならないことがたくさんあった時代は、大勢の人間が組織にぶら下がりながら、集団の約束事(標準解答)に素直に従うことが力になった。しかし、今は、進むべき方向もあやふやだし、本当にやらなければならないこともよくわからないという時代なのだから、視点そのものを変えていかなければならないのだと思う。
 とはいえ、「自分らしい生き方」、「自分の固有性」、「創造性」といったことに対して、あまりにも安易で、自己本位で、短期的な視点で、それを手に入れようとする人も多い。
 安易で、自己本位で、短期的な視点の、「自分らしさ」とか「創造性」の主張は、多くの場合、「ぶら下がり」意識から来ている。自分の固有性や特性を認めて受け入れてくれる「場」が、どこかにあって、それを見つければいいという発想だ。でも、そんな自分に都合の良い「場」など存在しないし、そうした発想から、本当の意味で、「自分らしさ」や「創造性」など生まれやしない。
 誠意をもって物事に取り組み、丁寧に時間をかけてはじめて、その人の特性が物事に反映される。その反映されたものこそが自分らしさであり、固有性であり、創造だ。その反映の影響が広がってはじめて、そこに自分ならではの場ができる。
 「自分らしさ」を主張しながら、誰でもできるようなスタンスで人や物事にアプローチするという矛盾したことができてしまうのが現代だ。教育でも、人間関係でも、「人それぞれ」とか「寛容」という安易な言葉でカムフラージュし、一見親切でありながら実際は他者と距離を置く現代人の習性によって、矛盾に気付けず、結果的に「自分らしさ」や「創造性」から遠のいて行くという悲しい現状がある。
 「自分らしさ」や「創造性」は、「安易さ」や「中途半端さ」からもっとも遠いところにあるということを、まず知らなければならないのだろう。