国東半島に移住して農業をやりながら、土地の写真を5年以上撮り続けていた船尾修さんの「カミサマ ホトケサマ」という写真集は、このブログの「編集部からの情報発信」でも少し紹介したけれど、さらに今春の展覧会も決まり、まだまだ小さな波だけど、いい流れが来ているなあと思う。
彼が編集部に来たので、近況など、いろいろ話しをした。私は、今、大学や専門学校をまわっているが、物事が決定していくために、それぞれの組織のなかで複雑怪奇な事情が絡んでくるという話しをしたところ、「そういうことに比べて、農業はやっぱりいいよなあ」と船尾さんは言った。
「土は、誤摩化しがきかない。やればやっただけ応えてくれる。」のだと彼は言う。もちろん、短期的には思うようにならないことが発生するが、長期的に見れば、必ず自分が努力したことが具体的な形になる。その喜びが大きく、よりいっそう真剣になれる。それに比べて、都市情報社会のなかの仕事は、自分が行っていることがどのように結果につながっていくか見えにくい。努力が結果につながる人もいるが、努力とは関係ない様々なしがらみや、嫌らしい駆け引き、癒着、それらのややこしい調整などによって物事が決まって行くことが非常に多い。「良いものは良い」と単純に言い切れない見通しの悪さがある。
もちろん、近年の農業でも、都市情報社会の影響下にあって、味そのものよりも、形や色などが大事になり、それらの見栄えをよくするために、自然の摂理から外れたことが平気で行われたりするが、そういうことは、必ずどこかでしっぺ返しがある。
都市情報社会においては、誤摩化しに対するしっぺ返しがあるのかないのかよくわからないまま、上手く立ち回っている人間に、さらにメリットが生じる構造も作られている。だから、上手く立ち回らない人間がバカだということになる。このように歪んだ状況のなかで、脇目も振らず、真剣さや必死さを保ち続けることは、並大抵のことではない。
「やむを得ない、仕方ない、なんだかんだ言ってお金がすべてだから」と、自分を誤摩化していくことは、責められることではないだろう。社会のせいにしているだけでは何にもならないけれど、実際にそういう社会であることも間違いない。そして、一人一人が、そういう社会だからと諦めることで、その傾向がさらに強化されていくという現実がある。そのような状況のなかでも“必死”になって頑張っている人間は、同じように頑張っている人から見れば励みになり共感も得られるが、完全に諦めている人からすれば、自分の傷に触れられるようで、妬みの対象になって疎んじられることも多い。
学生時代から、大人達が作りあげた「人間の弱さや狡さ」を巧みにカムフラージュする社会を見て育ってきた若者たちが、いったいどのようにして、打てば響く自然と向き合う時のような真摯さを自分のものにする事ができるのか。
年長者が、「今の若者は・・」などというのは、まったく見当違いであり、“豊かな土地”を、アスファルトで固めたような、その場しのぎの誤摩化しが通用し、取り替え可能な標準的地面に仕立て上げ、そこでうまく立ち振る舞う価値観を強化し、人間の美質を損なってきたのは、間違いなく大人なのだ。
時間をかけて人を育てるという発想がなく、目先の対応だけに特化した派遣労働のシステム化などは、その最たるものだ。
大人が作った卑小な価値観に染まって行くのか、そこから脱して行くのかが、若者の選択であり、責任ということになる。
大勢の年長者が、がんじがらめにつくりあげた世界を変えることは、簡単な事ではない。簡単なことではないけれど、諦めない気持ちを維持していくためには、諦めなくてもいいと思える、打てば響くような希少な出会いを、少しずつ積み重ねていくしかない。それを、少しずつネットワークにしていき、そこを新たな“土地”にしていくこと。
真剣な思いを持ち、心を配り、手をかければ必ず応えてくれる“土地”。見返りを求めているのではなく、その応えが、勇気となって前向きに生きる力になっていく“土地”。農業でもそうだし、介護の現場でも、そういう話しをよく耳にする。その二つは、既にそうした“応え”が明らかになっているが、それ以外にも、必ず、そうした“土地”はある。人間同士の付き合いのなかにも、アスファルトで固めて壊れれば付け足せばいいという発想のものもあれば、土の大地のように誤摩化しが通用しないものもあるだろう。
長い目で見れば、誤摩化しのきかない世界に生きる事が、世界の耕し方を身につけることができ、きっと幸福なのだろうと思う。今日の社会を覆う短期的成果を目指す付け焼き刃的発想が、長期的に、土地も作物も痩せ衰えさせていくことは明らかなのだから。