写真表現の行く末

 昨夜、荻窪の六次元で、写真家の岡原功祐君とトークを行った。

 いい写真かそうでないか、好きか嫌いか、わかるかわからないかといったことが写真において議論されることがあるが、私にとって、そういうことはどうでもいい。

 私が写真を見る基準は、その写真を信頼できるかどうかに尽きる。

 信用ではなく、信頼。嘘かどうか正しいかどうかではなく、その写真の力を信じて頼ることができるかどうか。

 現代社会を恢復させるために、私は、写真の力が大事だと思っている。写真の力とは、映像によって歪められている感覚を、映像によって正す力のことだ。

 20世紀は、映像の時代と言える。映像は社会に大きな影響をもたらした。20世紀において、映像が最大限に利用されたのは、おそらく報道と広告だろう。映像は、この二つに対して、言葉よりも有効だった。

 報道映像によって、人々は、遠くの出来事を知る事ができるようになった。しかし、それとともに、本当は簡単には理解できない複雑なことなのに、映像によって単純化され、わかっているつもりになってしまった。

 広告の映像によって、多くの人が商品の魅力を知り、買いたい欲求を刺激され、大量生産が可能になり、それに伴って流通も発達した。同時に、映像刺激に惑わされて不要な物もたくさん買って捨てるということが繰り返されるようになった。

 映像によって、簡単に”わかったつもりになれると、人は、わかりにくいことに対する耐性がなくなっていく。わかりにくい書物は敬遠され、政治家なども、アーウーと唸ったり口ごもって何を言っているかよくわからない人はバカにされ、大きな声で単純明快に語る人が人気者になった。思考を深めるがゆえに誰にでもわかる明瞭な説明ができない人よりも、思考の浅い内容のことを単純明快に語る人の方が人気をとれることを知った政治家は、ますますその傾向を強めている。そして、その種の政治家は、物がたくさん売買される状況を国民の幸福な状態だとみなし、単純化した政策を語り、スポンサーを抱える商業メディアは、当然ながら、その種の政策を支持する。

 しかし、気をつけなければいけない。わかりやすさには、思考停止に導く罠がある。思考停止にしてしまえば、人を思うままに操ることができる。単純な筋書きにして事を進めやすくなるし、都合良く物を買わせることもできる。

 だからといって難解にすればいいわけでもない。簡単な言葉で言えばいいところを、敢えて専門用語を多様して権威化して語る人もいる。最初から難解さを狙った難解さは、人を引きつける力はない。

 本当に大事なことを人に伝えようとする時、もし簡単に伝えられるならばそうした方がいいに決まっている。しかし、わかりやすく伝えようとしても、事実の重みを知るがゆえに、そう易々とできないことがある。単純化してその重みを消してしまうのではなく、その重みを重みのまま伝えること。私が信じて頼りにする表現の力とは、そういうものだ。

 言うに言われぬものの上っ面を撫ぜるようにごまかして伝えることが当たり前のように行われている多くの情報によって操作されてしまっている私たちの感覚を修復するのは、その種の情報のいかがわしさを浮かび上がらせる力を持つ表現によってのみ可能という気がする。

 そして、言葉の乱れは言葉によってでしか修復できないし、映像によって歪められている感覚は映像でしか修復できないだろう。現代社会は、言葉も乱れているかもしれないが、映像も乱れている。ただ言葉の場合、私たちは幼少の頃より言葉の教育を受けてきているので、乱れているかどうかの判断はしやすい。しかし、映像に関しては、学校教育を含めて、教育の機会はない。映像は物事を写しているだけだから見ればわかると勘違いされている。

 映像において大事なことは、写っている物ではなく、写っている物と写っていないものの関係を読み取れるかどうか、そこに偽りがないかどうかなのだ。

 なぜなら、映像は、私たちの周りの世界をフレームで囲い込む行為であり、そこに存在する全てを映し出すことはできない。また、映像は三次元空間を二次元に置き換える行為なので、カメラをどこに置くかによって見え方は全く違ってくる。たとえば、馬が走っているという事実がある場合、馬の後ろにカメラがあるのか前にあるのかによって、映像の中に現れてくる現象は、別のものになる。

 私たちは、そのように映像行為の背後にあるものを何も学習しておらず、無防備の状態で映像の前にさらされている。

 身近な例として、マンション販売のパンフレットでは、部屋の中に素敵な家具が配置されている。しかし、それらの家具は実際に使用するものより小さく作られているケースがある。家具を小さくすることで、目の錯覚によって部屋が広く見える。そのイメージで人を誘い、モデルルームに案内し、マンションの建設前に契約をとる。そして、実際にできあがったマンションの一室にベッドを入れると、パンフレットのようにはいかない。狭くて、他に何も置けなくなってしまうのだ。家を買うという人生の一大事において、映像のゴマカシに無防備だと痛い目にあってしまうが、それ以外にも、同じようなことはたくさんある。

 飢えた子供の顔写真をクローズアップで見せつけられると、その国の全ての子供がそのような状況に陥っているかのように錯覚してしまうが、その子供の傍らには、楽しげにはしゃいでいる子供が大勢いるという現実もある。

 写真に写っているものと写っていないものの間。現場に立っている写真家には、両方が見えている筈だが、敢えて一方を無視してしまうということが平気で行われている。もしくは、目的意識が強すぎて、他のことが目に入っていないということもあるだろう。

 誠実な写真家は、その二つの間で悶々とする。そして、自分が見ているものを、フレームで囲んで二次元に置き換えるという制約の中で正直に伝えるためにはどうすればいいか思い悩む。そういう生みの苦しみを通して生まれた映像こそが、

商業主義に侵され自己都合的になっている大量の映像の虚偽を浮かび上がらせる力を持っている。私が信頼する映像というのは、そういうものだ。

 一昨日の岡原功祐君とのトーク。会場にいた人は実感しただろうが、岡原君の話は、決して明瞭と言えるものではない。モゴモゴと言葉を積み重ねているが、話を聞いても意味がわからないと感じた人も多かっただろう。しかし、岡原君が、真摯に何か大事なことを伝えようとしている気配は十分に伝わった筈だ。欺かず、ごまかさず、お茶を濁さず、適当にあしらわず。

 その人が伝えようとしていることを信じられるかどうかは、そのようにモゴモゴとした言葉の積み重なりから醸し出される気配が大事なのだけれど、最近の傾向として、聞き手が、そのモゴモゴに耳を傾け続ける忍耐力を失ってしまっている。 

 けっきょく何が言いたいのと結論を求めすぎる。政治家にしても、本当はアーウーと、言うに言われぬものを精一杯伝えようとする人の方が信頼を置けるかもしれないのに、「あの人の言っていることはよくわからない」と切り捨てられる。そして、都合の悪いことは切り捨てて単純明快化した人が人気を獲得する。その傾向を押し進めてきたのが、テレビを筆頭とした大衆メディアであり、その影響を強く受けた人は、微妙なものに対する忍耐力をどんどんと失っていった。

 忍耐力を失っていることに無自覚のまま、消費者意識ばかりが強くなって、物事の良し悪を決定する側にいる(自分が気に入るかどうか)と錯覚していることが痛ましい。なぜなら、微妙なことがわからなくなっている人が気に入るよう仕向けることは簡単であり、その方向に知らず知らず誘導されて利用されてしまうからだ。

 マンションの購入に限らず、消費社会においてはその種の罠はあちこちに仕掛けられている。消費だけにとどまればいいが、政治における重要決定の場面で、同じ手法が使われる。

 一昨日の岡原君のトークのようなものは、テレビであり得ない。かりに彼がテレビに出ることがあっても、誰もがわかりやすい答を発するような方向へと質問が偏るだろう。「危ないところに行って恐くないのですか」とか、「視聴者の方に一言お願いします」とか、彼の写真そのものに深く肉薄していく話にはならない。

 テレビには、トークイベントのような場の空気は関係ない。わかりにくい言葉にじっくりと耳を傾けさせる力は、場の空気の中にこそある。映画などにおいても、DVDを借りて家で見る事が当たり前になってしまうと、わかりやすいストーリーの、内容がスカスカで見るのに負担のかからないものばかりになってしまう可能性がある。濃密な内容のものをじっくりと見ようとすると、心に負荷がかかる。しかしそれは魂のストレッチであり、それを怠ると魂の筋肉が萎え、小さな問いに対しても耐えられなくなり、問いから目を背けてしまうことになる。

 そうならないためには、魂に負荷がかかることが何かしらの喜びに転換する場に足を運んだり、身の回りに置いておくことが大事なのかもしれない。

 写真にしても、部屋の中でゴロゴロと寝転んでポテトチップを食べながらパラパラとめくりながら見ても何の違和感もない消費写真ばかり見るのではなく、たとえ何だかよくわからないものだとしても、心を集中させて見ざるを得ないものを、たまには見た方がいい。

 そこに写っている物が、興味を持てる対象か、そうでないか瞬時に判断できるよなものは、心を集中する必要はない。そこに写っているものと写っていないものの関係を漠然とでも意識せざるを得ないもの、考えざるを得ないものは、見ることにおいて、心を集中せざるを得ないが、その宙ぶらりんの感覚がとても大事で、なぜなら、そこに写っているものの背後に何かしら大事なことがあるかもしれないという問いを、私たちの心に宿らせるからだ。

 問いに対する忍耐力がなくなってしまうと、すぐにその問いが何の役に立つかどうかといった話になる。

 しかし問いというのは、種を蒔く以前の畑を耕す行為のようなものであり、それだけだと何の作物も出てこない。しかし、人生において、いざ種を蒔こうとする時、土地を耕せていないと作物は健やかに育たない。それをごまかそうとして化学肥料を多用すると、ますます土地は痩せていき、ますます肥料が必要になるという悪循環に陥る。

 自分という土地の力を増すためにも、問いは欠かせない。そして、問いの迷路を歩くうえで、信頼できるものとは、お手軽で嘘っぽいハウツーではなく、自分以上に迷路をさまよっている人が発信する重層的なものだ。

 言葉においても、そうしたものが存在するし、写真においてもそうだ。それでも言葉と写真に違いがあるとすれば、言葉の歴史は長く、私たちは、長い歳月を経ても風化しない信頼に値するものをたくさん知っているし、公的な教育においても十分な時間をかけて学習した(せっかく学習したものが、世事にまみれるうちに劣化していくことがあるにしても)。さらに、言葉の分野における研究者はたくさんいる。それに対して、写真は人類史のなかでごく最近に誕生して、歴史的に検証されるための十分な時間を経ていないし、公的教育機関で学習もしない。さらに、数少ない写真研究者の大半は、流行やハウツーの範疇ででしか写真を語らない。にもかかわらず、世界中に写真は溢れかえっており、日々の生活で写真に触れないことはなく、知らず知らず、その影響を多大に受け取っている。

 消費経済に基ずく情報操作の影響で、人気タレントのようなフォトグラファーになりたいという人が増え、その人達が乱発する”ファッショナブル”と言われる刺激剤(お手軽なファーストフードのような)によってますます消費意欲がつのり、単純明快で対症療法の化学肥料のようなものにしか心が反応しなくなって自分という土地を痩せさせ、人生も消費財のようになっていく。

 そうした状況でも、農業において自然農法に立ち返ろうとしている人が少しずつ増えているように、写真もまた、信頼に値する写真を撮るために足掻いている人は、岡原君のように、若い世代でも少なからずいる。

 写真表現の行く末は、信頼に値する写真に触発されて、信頼に値する写真を撮ろうとする人が増えていくかどうかにかかっている。そして農業においてもそうであるように、消費財をばらまく上で都合がよかったこれまでの流通とは異なる流通づくりが必要だろう。

 私が風の旅人を作り続けているのは、言うに言われぬ写真の力を信頼していることが根本にあり、その上で、言うに言われぬものの力を引き出す場と、それを伝えていく流通を作ることの重要性を感じているからだ。