第888回 映像の時代における感覚と記憶

P022_img_9829(撮影/大石芳野 2012年11月 福島県浪江町から避難して仮説住宅にいる。) 「いつまでこうした生活が続くのか不安」 風の旅人 復刊第5号 「福島の祈り」より

  

 3.11の震災の時、手持ちのスマートフォン等で莫大な数の「映像」が記録された。それらの「映像」に関するテレビ番組を昨日見た。

 津波に襲われて自分は助かったものの身内や友人を失い、あの時の映像を見るのは辛いと感じる人がいる一方で、映像を見ることで、亡くなった人の最期の瞬間を記憶し続け、今、自分が生きていることの有り難みを感じ、生きていく力にする人もいる。
 確かに、こんなにたくさんの映像を撮られた震災は、歴史上なかっただろう。
 私たちは、映像によって震災の記憶をとどめることができる時代に生きている。しかし、映像がなかった時代も、人々は、映像以外の方法で、記憶を引き継いできた。
 映像への依存度が強くなってしまった私たちは、映像以外の方法で記憶を引き継ぐ力を弱めているかもしれない。
 だから、目で見る光景が刻々と変化し、あの時の光景が自分の脳の中で薄れていくと、あの時の体験も風化していっているように感じてしまう。
 文明の利器を一つ手にいれるごとに、私たちは、もともと持っていた力を少しずつ失っていっているとよく言われるが、映像体験については、映像によって私たちが何を失っているのか、あまり意識されていないように思う。
 私たちは、ほぼ毎日のように映像に触れていて、その刺激によって色々なことを判断するようになっているが、映像がなかった時代に人間がどのように物事を判断していたか、今となっては想像しずらい。 
 物を見るということについて、今も昔も同じような物の見方をしていたのだろうと私たちは思っているけれど、そうではない可能性がある。
 映像は何度も繰り返して確認する事ができるし、写真のように、同じイメージをじっと見続けることもできる。その為、視覚の記憶は固定化でき、明確にできる。
 映像の時代に生きる私たちは、聴覚や嗅覚や味覚や触覚は、視覚に比べて曖昧で、物事を判断するうえで視覚ほど頼りにならないと思っているが、もしかしたら、映像の時代以前は、視覚も他の感覚も同じように曖昧だったかもしれない。
 現代人は、映像化によって視覚への依存が強まり、それ以外の感覚が弱まってしまい、物事を判断するうえで色々な勘が働かなくなっているかもしれない。それゆえ、簡単に映像に騙されてしまうことも起こる。
 広告映像などは、主に視覚への訴求力で人の心をコントロールしようとしている。
 ゲーム映像などの影響で空想と現実の境界がわからなくなって犯罪をおかしてしまうことも、視覚世界だけが自分のリアリティになってしまえば、ありうることなのだろう。
 これだけ映像が氾濫するのに、現代人は映像に対する警戒心が弱い。学校教育などにおいて、映像(写真)に関する授業もない。
 国語教育というのは、言葉というツールを使いこなすスキルを身につけるだけのものではない筈だ。本当のこととそうでないことを見極める力を身につけることが大事であり、そのためには文脈を読み取る力が必要で、国語教育は、その訓練であるとも言える。
 視覚は、論理と違ってフィーリングだから訓練なんか必要ないと思われているが、そのフィーリングじたいが、映像によって麻痺させられ、損なわれるということが自覚されていない。
 映像も言葉の文脈と同じで、表面化している像の背後にあるものを読み取る力を養っておくことが必要だと思うが、そのためにはどうすることが必要なのか。
 たとえば、良い物も悪い物も色々見る事で良いものがわかるようになるという言い方がよくされるが、実際はどうなのだろう。たとえば骨董屋の後継ぎは、徹底的に本物ばかりを見せられて育てられると聞いたことがある。
 本物ばかり見続けていると、目の前に偽物が現われた時に、オーラの違いですぐにわかるらしい。本物と偽物の違いを分別知で整理して区別するわけではないのだ。
 人間付き合いなどにおいても、大きな会社の創業者などすごい人にたくさん会っていると、その人の身体や精神から滲み出るものがテイストとして記憶されるので、口ばかり達者ないかがわしい起業家と会っても、すぐにその本質を見破ることができるだろう。
 食物の場合は、もっとわかりやすい。本物と偽物を食べ比べしていると舌が麻痺してしまう。鮮度のいい本物だけ食べていれば、鮮度の悪い偽物が口に入った瞬間、これはおかしいとすぐにわかる。
 映像もまた同じだ。歳月によって簡単に風化しない映像体験と、一年も経たないうちに古く感じられるものがある。
 歳月によって簡単に風化しない言葉がそうであるように、風化しない映像体験には、豊かな文脈がある。
 大事なことは、明確な形で外に現われているわけではなく、内側に隠れていて、時々、自分に働きかけてくる。そうした働きかけによって、自分の中に隠れている大事なものが喚起され、意識化される。言葉にしろ映像にしろ、文脈の力というのは、そういうものだ。
 昨夜のテレビ番組で、自分達が瓦礫に乗って津波に流されている映像を携えて全国の学校等をまわり、津波のことを語り継いでいこうとしているご夫婦が紹介されていた。
 そのご夫婦は学生達の前で、映像を見てもらうとともに生の感情を一生懸命に伝えていた。
 映像を見て、その上で話を聞いた大学生達は、「なんていったらいいかよくわからないけれど」と声をふるわせ、悲しみの涙ではなく、事の重大さを心身で受けとめる時の、グサリと胸にくるというあの感覚で、命のかけがえのなさに涙していた。
 学校の先生が生徒に対して、また研究者や評論家が一般の我々に対して、背後の事情を解説するだけでは文脈は伝わらない。
 グサリと胸にくる感覚をともなってこそ、文脈をともなった体験となる。
 毎年、3月11日になると、「震災を忘れない」という言葉が新聞などに溢れ、記念碑を残して記憶を維持しなければならないという主張もある。
 しかし、グサリと胸にくるあの感覚を伴っていない物ばかりが増えると、かえって人々の感覚を麻痺させてしまい、それこそ本当に風化してしまう。
 どんなものでも、真実味がともなったものは胸に応える。
 たとえば、昨日の政府主催の追悼式でスピーチした19歳の女性は、家もろとも津波で流され、冷たい水の中に瓦礫で身動きできなくなった母をおいて、自分は泳いで助かったという悲愴な体験を持つが、「何人亡くなったという数字よりも、私の体験を話す方が関心を寄せてくれるのでは」と、自分の辛さを胸の奥でこらえ、一言一言、噛み締めるように言葉を発していた。その言葉も表情も姿勢も美しかった。
 何か大切なものを噛み締めるように発せられる表現は、それを受け取る側も、噛み締めるような気持ちになる。そのようにして、物事のテイスト(経験の味わい)が深く記憶される。記憶の伝達というのは、そういう経験の味わいを伴ったものでなければならない。
 今日の社会において、情報伝達に多大なる影響力を持つ映像表現に従事する者は、せめてその微妙な物事のテイスト(経験の味わい)を損なわない誠意を持ち、細心の注意を払うことが、記憶の伝達者として守るべき責任だと思う。
 そして編集者は、出版社によって色々なミッションが与えられているが(売れる本を作るというミッションとか)、風の旅人の場合は、記憶の伝達者として信頼できる映像表現者を見極める目を持つことと、彼らの表現の力を損なわないことが大事な責任なんだろうと思う。


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