第1392回 現代人が見失っている「視る能力」について。

 中世の人に比べて現代人は、聴覚より視覚に意識が偏っているという話を聞いたことがある。

 文化人類学者の川田順造さんが、「曠野から」という本の中で書いているのだけれど、無文字社会のモシ族のフィールドワークにおいて、神話の語り会があるというのでオープンリールのテープレコーダーで録音しようと思って出かけたところ、太鼓を叩き続けているばかり。いつ始まるのかと待っていたが、太鼓が終わるとみんな帰り始めてしまた。「いつ、語り会が始まるのか?」と尋ねたら、「今やってたじゃない」と言われたという話。

 モシ族にとって、太鼓の音は、伴奏ではなく、音の高低や、強弱で意味を理解できる。身体の動きや、指先の動きでさえ、言語らしい。

 現代人が「言葉」と定義している形式になっていないカオス状の言葉を、人間は認知して判断して、それを伝達することも可能。

 これは、文字を持たないモシ族にしかできないことなのか、それとも、現代文明の中で生活している私たちも、潜在的にまだ持ち続けている能力なのか。

 文字を持っていない時代、人間は狩猟を行っていた。獲物をとらえるためには視覚が必要なのだから、古代においても、視覚の重要性は変わらなかったはず。

 モシ族だって、身体の動きや指先の動きからも、言語的情報を得ている。

 ならば、現代人の視覚と、文字を持たない古代人の視覚のどこに違いがあるのかが重要になってくる。

 私が思うに、視覚の固定化に鍵があるのではという気がする。

 世界は流動的なものなのに、現代人の視覚は、世界を認知して意味付ける際に、その動きを分断して固定化して判断したり意味づけたりする癖があるのではないか。

 物事がよく見える人は、動きを分断するのではなく、動き全体が一つのまとまりとして存在している。

 これは、プロスポーツの分野では明らかで、優れた活躍をする人の「目」には特徴がある。野球の三冠王だった落合選手が、「ボールを目で追うようになったら、そこまでで終わり」という言葉を残していた。

 守備の場合は、目でボールを追うと、頭が届かないと判断して足が動かなくなる。だから、足で追わなければいけない。バッターの場合も、ボールを目で追って、打つぞと判断してバットを振っても間に合わない。

 本来、人間が備えている「視る能力」は、空間的だけでなく時間的にも、常に全体を同時に見ている状態。

 優れたプロスポーツ選手にその感覚が残っているのは、プロの世界が、生き残りの厳しい状態で、その能力を衰えさせると、生きていけないからだろう。

 曠野で生きている人間も同じで、動いている世界を固定的にしか見れないと、背後に潜んでいる野獣を防ぐことはできない。

 文字化というのは、知識や情報の共有化にはつながるけれど、生きるための知恵そのものは、文字に現れない文脈に秘められている。その文脈を読む能力が減退して、形に現れている記号の部分に意識が囚われてしまうようになると、サバイバルのための知恵の伝達ができなくなる。

 それは、現代においてもプロスポーツの世界では当たり前のことだが、広く人間社会全体だと、形骸化された情報の世界じたいが生きていく世界ということになって、その世界の中でのサバイバル術は、その世界に順応するという処世術になっている。 

 その処世に長けた人たちが社会を作っていくと、結果として、人間が備えているはずの、空間的だけでなく時間的にも、常に全体を同時に「視る能力」は、ますます退化していく環境になる。 

 たとえそうなったとしても、世界の変化が少ない時は、なんとかごまかしながら生きていけるが、変化が激しくなると、対応が難しくなる。

 そんな現代人でも、「気配」という言葉を使う。気配というのは、見えていないけれど何かを察知している状態だが、空間的だけでなく時間的にも、常に全体を同時に「視る能力」と、気配を察知する能力は、連関しているのではないだろうか。

 源氏物語の男女は、簾越しに、声や香りや、発せられる言葉や、気配によって相手の素晴らしさを確認し合う。

 「顔を視る」などと、意識がそこに固定されると、人間としての魅力全体を感受できなくなる。それを踏まえたうえでの精神文化が社会的に成熟していたのだろう。野球のケースでの「ボールを目で追うようになってしまうと、そこまでで終わり」と同じこと。

 現在、私は、古代から大切にされてきた聖域などを、ピンホールカメラを使って撮影している。

 その一番の理由は、はっきりと写りすぎていることで、かえって見失われるものがあることを実感するからだ。

 その場所を明確に写しとったところで、それは固定的な記録にすぎず、時間を超えて大切にされてきた何ものかの気配などは、いっさい感じ取れない。

 そもそも、そういう場所に立った時に、人間は、そこにある一つの物に意識が固定されておらず、全体から醸し出されている何かを感じとっている。

 そうでなければ、そこにあるのは、ただの大きな岩でしかない。

 変化が激しくなってきている現代において、空間的だけでなく時間的にも、常に全体を同時に「視る能力」は、サバイバルにおいて、重要な能力になっていくような気がする。

 しかし、人々の不安につけこんで、本来、人間が備えているその能力を、さらに劣化させる方向に導く情報知識も多い。

 全体ではなく部分に限定し、時間的にも空間的にも、今、自分の目の前のことに限定する方向へと導くような表現。刹那的で、処世術的で、趣味的で、消費的なもの。

 それが良いかどうかの議論は無意味で、「ボールを目で追うようになってしまうと、厳しい世界では生き残っていけない」という生命世界の真理が横たわっているだけのこと。

 集中力が、一個のボールではなく、全体に向けられている状態を、生命世界は、生きとし生けるものに求めている。

 

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