屋久島で触発されたこと(続)〜生死の問題など〜

 屋久島では、倒木とか他の木に着生した植物が、そこから根を出していくので、根が地上に剥き出しになっている。また、脂分の豊富な屋久杉は、倒れた後どんなに雨に晒されても腐らず、そこに着生する植物が生きていく環境そのものになっているので、「死」が「無」ではなく、「生」と同居する形で視覚的に確認できる。

 私たちの一般的な世界では、「根」とか「死」は、目に見えないところに置かれているけれど、屋久島では、それが目に見える場所で、「幹」や「生」と一心同体になって、同じ存在感を放っている。

 「本質」というものは、ふつう目に見えず感じるしかないと思われているが、屋久島では、「本質」が、目に見える形で存在しているといってもいいだろう。

 屋久島の森を歩いていると、現代社会と照らし合わせて、いろいろと考えさせられることが多い。例えば、江戸時代、屋久杉は年貢として伐採されていた。切り倒した屋久杉を、幅10cmほどの屋根を葺く平木にして納めたのだ。平木用の木は、真っ直ぐでないとダメだということで、表面がモコモコと波打っている形の悪いものは切らずに残された。切られた木でも、切った後の切り口を見て使いものにならないと判断されたものは、その場に残された。そして、そこに残されたものは、現在でも森の中の生命の循環において役割を果たし続けている。しかし、平木にされたものは、人間の都合の良いように整えられ、屋根を葺く材料として役割を負い続けることになる。

 人間社会でもそうだが、管理された条件のなかで、栄養(知識・情報も)をたっぷり与えられて、すくすくと速く真っ直ぐに育つことが良いことのように思われているが、それは、人間社会にとって都合の良い人間をつくることであり、良質の平木となることと同じなのだろう。近年、日本国中に均等な間隔で植林されている生長の速い杉も同じで、人間社会に役立つことが期待されている。そのようにしてスクスクと真っ直ぐに育った木は、実に生命力が弱い。そして、腐りやすい。苛酷な環境で自らの生存スタイルを持って時間をかけながら何とか生きのびてきた木は、その時々の状況に応じて枝を伸ばしたり、幹の方向を変えて厚みを増してきているから形は歪だけど、その形を見ているだけで、強烈な生きる意思のようなものを感じる。そして、実際に、風雨とか環境変化に対しても強い。

 現代社会の教育は、植林の発想なのだろうなと思う。等間隔に植えて日照条件を同じにするという平等主義で、栄養分をたっぷりと与えて、人間に都合の良い平木のような人間を作る。

 植林の状態で屋久杉のように自由奔放な形になろうと思っても、幹の中心あたりの基礎的な部分の年輪の幅が間延びして弱いから、自分自身を持ちこたえることができない。

 屋久島のように成長の初期段階において、困難な環境のなかで、たとえ時間がかかろうとも自らの力で年輪を積み重ねてきたものは、その部分が強いからこそ、表面は自由奔放の形になれる。そして、その奔放でデコボコした形は、人間に都合の良い平木には向かないが、倒れた後、他の植物が着生しやすい条件となる。

 ところで、意志とか気力というものは目に見えないと思われている。動物だけ見ていると、意志とか気力は行動に表れる。行動は固定的でないから、目に見える形でとどまってくれない。だから見えないと思われている。しかし、植物の場合は、根を下ろした場所にとどまっているから、意志とか気力を行動で表すことができない。だから彼らは、それを形にして表しているのではないだろうか。植物は動物よりも自在に形を変えることができるから、意志とか気力は形に反映されやすい。

 私は、最近、木を見る時、その形を通して彼らの意志とか気力を感じる癖がついている。

 たとえば、人間の概念での「自由」は、植物の形を通して、その本質を知ることができるのではないかと思っている。同じく、「死」も「生」も。人間が植物の形から学ぶことは、たくさんあるだろう。

 屋久島の植物は、植物というものが、「形」によって様々なことを表していることが強く実感できる。「形」に意味があるし、時間がある。人間が古代から探究してきた、「生」と「死」、「存在の意味」、「時間」など哲学的命題の全てが、島全体に満ちていると言ったら過言だろうか。


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