原発事故で被爆した小さな村を舞台にした美しい表現

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 本橋成一さんは、土門拳賞受賞の写真家であるとともに、国際的にも評価の高い映画監督だ。
 本橋成一さんは、1986年に起こったチェルノブイリ原発の爆発事故で被災した小さな村を舞台にした、美しい映画と、美しい写真を残している。
 映像の舞台になった小さな村の畑からも、森のキノコからも放射能が検出されるが、不思議なことに、村の中にある<泉>の水からは検出されない。汚染された土地に滾々と湧く<奇跡の水>の力によって、村人たちは生き続けている。
 本橋さんは、悲劇の舞台で生きる人間達を、厳かに美しく描きだす。その美しすぎる映像のため、人類に起こった悲劇をカムフラージュしているなどと批判する人もいるが、私はそう思わない。悲惨で残酷な状況だけに焦点をあて、人間の愚かさを強調したり、政府を攻撃する表現手法の人もいるが、本橋さんの手法は異なる。そして、どちらかというと、本橋さんの手法の方が、より難しいと私は思う。
 本橋さんは、人間の愚かさもわかっているし、権力がやることの酷さもわかっている。けれど、それを暴いたり批判するだけでは現状を否定するだけで終わってしまう。本橋さんは、酷すぎる現状に代わる未来を何とか手繰り寄せようとしている。酷い現状に対して、あたかも自分は潔白であるかのように糾弾するばかりでなく、同じ人間として現状を哀しみ、まずは自分の内側から変えていこうとする静かな意志が、本橋さんの作品には脈打っている。その意志は、祈りであり、魂と言うべきものだ。

 本橋さんは、人間の愚かさによって壊されてしまったものを強調するのではなく、壊してはいけないと痛切に感じさせる世界を浮かび上がらせる。一人一人の心に、「壊したくない、壊してはいけない」と痛切に哀切に願う気持ちが生じなければ、政府を批判しても何も変わらない。けっきょく、政府を選ぶのは私たち一人一人なのだから・・・。
 破壊された物は、状況の悲惨さを伝え、嘆かわしい気分にさせる。しかし、その嘆かわしさが、悲惨な状況を作り出した企業や政府を攻撃するだけで解消されてしまうことがある。特定の誰かを批判することを繰り返しても状況は変わっていかない。なぜなら、膨大な数の人間の生活の積み重ねの上に、エネルギーをはじめ様々な問題があり、それに付随する形で政府の政策が決定され、それに乗じようとする利権屋の思惑も混ざり、複雑で悪い状況がはびこっていくからだ。

 この地球上に起こっている大きな出来事は、一人一人だとあまり関係ないように見えるが、それが何万、何百万、何十億と集まった時に、怪物のような力となって影響を与えているのだ。
 一人一人の意識そのものが変わらなければ、根本的な解決には至らない。
 反戦とか反原発とか反帝国主義とか、巨大な敵がそこにあるように想定して、それらと戦う姿勢をアピールするばかりではなく、その戦う相手が自分の中に潜んでいるかもしれないと内省することも大事なのではないか。本橋さんの映画や写真は、そうしたことを静かに語りかけているように思う。
 本橋さんは、自分のやっていることを大きな声でアピールしたり、スローガンを唱えて煽動するのではなく、小さな声で心の扉を叩くように語りかけている。
 そんな本橋さんの映像の中に登場する実在の人物たちは、彼らにとって当たり前の日常を、当たりまえに生きているが、その当たりまえのことが実に美しい。その厳かで粛々たる振る舞いは、まさに聖典の中の聖人を思わせる。

  この写真は、風の旅人 第7号で紹介しています。