映像文化の未来

 「映像文化の未来」について論じる力は私にはないけれど、思うところはたくさんある。

 数日前、写真関係の大会社の偉い人と話をした。その人に、「風の旅人」に載っている写真は素晴らしいし、雑誌としての価値は認めるけれど、一般受けしないだろうと言われた。この言葉は、これまでも散々に言われてきた。企業というのは、「一般」というのを相当見くびっている。私は、一般であろうがなかろうが、受け入れられるかどうかは、コミュニケーションの仕方次第だろうと、(願望も含めて)考えているところがある。

 一般受けするかどうかなのではなく、「短期決戦」で広く一般に受け入れられるかどうか、というのが、企業やマスメディアの発想になっているにすぎないと私は思っている。

 良いものであれば、時間をかけてコミュニケーションをとれば必ず受け入れられ、しかも長く支持される筈なのに、その余裕がないから、短期決戦に走る。ぱっと目立って、ぱっと広がるようなことを重視する。だから、モノゴトはどんどん表層的になってしまう。

 今日の夜、神楽坂で、映画監督の小栗康平さんと、同じく映画監督であり写真家の本橋成一さんと、思想家であり批評家の前田英樹さんと会って飲みながら話しをした。

 私は、フィクションの映画監督では小栗さん、ノンフィクションの映画監督では本橋さんを尊敬している。そして、批評家では前田さんを尊敬しているが、前田さんは、立教大学に映像+身体+心理を融合させた学部を作ったので、ぜひとも二人の映像作家に会ってもらい、二人の映像作品を大学の講義に取り入れてもらいたいと私は思っていた。

 「映像」に関する講義では、映像について喋り慣れている人が呼ばれることが多い。評論家でなく映像作家という肩書きを持っていても、実は、映像ではなく言葉であれこれ説明するタイプの人も多い。そういう人たちの話は、わかりやすい。所々に知的エッセンスのようなものを混ぜ(ロラン・バルトスーダン・ソンダクがどうのこうの、タルコフスキーや小津がどうのこうの・・・)、何かしら高尚な味付けもなされる。どこかで誰かがそういう講義をやっていると聞くと、教授会やカルチャーセンターの類の催しで「誰かいい人いないか?」という議論になった時に必ずといっていいほど、そういう人の名が出て、使い回しされる。そのようにして、いつのまにか、その人は、その分野の専門家になり、権威と呼ばれるまで出世する人もいる。

 しかし、彼らは、「映像論」や「作家」について語っているだけであり、「映像」そのものについて語っていないことが多い。

 前田英樹さんは、ロシアの映画監督アレクサンドル・ソクーロフとの対談を読んでもわかるとおり、「映像」そのものに肉迫して語ることができる数少ない人だ。

 その前田さんと、喋るのはプロではないけれど、「映像」によるコミュニケーションを考えに考え抜いて映画を制作している小栗さんや本橋さんのような人が対談したり、実際にその映画を何度も見たりできる場があればいいと私は思っていた。

 そして、前田さんも、本橋さんや小栗さんの映画にとても感銘を受け、この人たちの映画こそを日本を代表するものとして、まずは日本人がそれを認め、世界に発信していくべきだ、と言っていた。

 わかりやすい答えが得られる必要などなく、多大なジレンマを抱えながら、人間の視覚というもののリアリティを深く掘り下げて追求していくこと。

 現代社会は、映像が氾濫し、人間は映像を見て判断しているように錯覚しているが、実際は、映像そのものではなく、そこに付着したわかりやすい言語によって誘導されているにすぎないことの自覚を促すこと。そのうえで、眼差しの力を取り戻すこと。映像に真剣に取り組んでいる人は、そういう覚悟のうえに映像を作り出そうとしている。

 しかし、そこまで深く追求しているわけでもないのに、奇をてらったものが海外で評価されてしまい、海外で評価されることはすごいことだ、という言説にのって、その作家がアイドルになったり、その類の映像が見本のようになってしまったり、大学が世間受けを狙ったり革新性をアピールするために、そういう人を教授に抜擢したりする。

 ご自身も「死の棘」でカンヌでグランプリを獲得した小栗さんは、海外の評価というものに関して、近年の「ジャポニズム」に懸念を持っていると言う。欧米人もたくさん「変なもの」を作ってきたが、「それ以上に変なものがあるぞ!」という感じで日本の作品を取り上げる傾向がある。それは文化の伝達にとっても、とても不幸なことだと。

 私もそう思う。欧米人が初めて日本文化に触れた時、日本文化は一つの完成形として本当に美しかった。日常の周りに溢れる道具なども簡素ながら洗練の極みにあった。だから、彼らはそこに「ときめき」を感じた。

 しかし、現在のアートのモチーフの多くは、病であり、歪みや断絶や倒錯であり、キッチュであり、「何か変なもの」に価値を与える言説をどのように打ち立てることができるか、という屈折した競走になっていることが多い。

 そうした流れに敏感に乗じる知識人はとても多く、マスコミなどは、それらの知識人の方を重宝するから、そのベクトルが王道のようになってしまう。

 面白ければそれでいいという考えもあるだろうが、私は、心の深いところに響くことで、モノゴトの見え方が変わる映像を見たいと思う。そして何よりも、映像を通して、「ときめき」を感受したい。

 本当の意味で「新鮮な作品」というのは、目新しいものということではなく、心がときめき、自分自身の眼差しが変わり、世界の見え方が新鮮になるということだと思うのだ。

 マスコミや知識人が作りあげている自己保身の構造の話しになってしまうと暗くなるので、「まあ、それはそれで・・・」と頭を切り換え、「映像文化の未来」について思いを等しくする人たちが、細い糸でもいいから連なっていくことが大切だろうということになった。

 小栗さんの新作である「埋もれ木」は興行的に失敗だったと言う。作品は本当に素晴らしい。しかし、簡単な言葉で誉め称えることができない作品だから、称賛の輪が広がっていかなかった。それともう一つ。最近は、何とかチルドレンという現象が、政治の世界だけでなく文化の世界にも広がっていて、兄貴分のようにチルドレンを抱えれば抱えるほど、その人の権威が高まる。「その人の影響を受けました!」というチルドレンを通じて、その人のスタイルが広がり、どんどん一般化されていくからだ。

 しかし、小栗さんのスタイルを受け継げる人はいない。小栗さんの固有性は抜きんでていて、誰も真似ができない。だから、小栗さんが池に石を放り投げても、一つだけ波紋が静かに広がって、終わってしまう。次なる波紋が続かない。

 小栗さんの前作の「眠る男」の時、東京の岩波ホールでの上映は丸々半年間に及び、単館上映による興行収入の新記録を打ち立てた。しかし、「埋もれ木」において小栗さんは、小栗作品=岩波ホールという公式を壊したくて渋谷のスペイン坂にあるシネマライズで上映したが、すぐに終わってしまい、その後、東京では他の映画館で上映されていない。

 本橋成一さんの「アレクセイと泉」も、最初の出だしはそんなものだったが、長い時間をかけて、少しずつ、あちらこちらで波紋が広がっていった。

 「埋もれ木」は、二度、三度、見る映画だと思う。

 一画面ごとの情報量が多いから、一度だと全て見切れていない。だから消化不良が起こる。二度、三度見ることで、映像の見え方も違ってくる。常に新たな発見がある。そして、全体として、とてつもなく豊かな映画であることに気づく。その豊かさを心から実感する時、映像を見ているようで見ていないということがどういうことか、改めて知ることになるだろう。



風の旅人 (Vol.21(2006))

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