きっとまもなく雨は降るさ

 小学校二年と六年の子供を連れて、ポレポレ東中野で公開されている本橋成一さんの新作映画、「バオバブの記憶」を見に行った。
 子供達が退屈するのではないかと少し心配していたが、まったくそうではなく、最後まで目を輝かせて見ていた。
 人々の生活の周辺に生き物がたくさんいて、子供が大きなバオバブの木に登って実を獲ったり、収穫した穀物を女性達が脱穀したりするシーンなどが、子供たちにとても興味深かったようだ。
 物語性などまったくない記録映画だけど、細部の積み重ねで、子供たちも充分に楽しむことができる内容になっている。
 私は、「バオバブの記憶」を見るのは二回目で、一回目は、正直に言うと、それほどよいと思わなかった。
 本橋さんの映画を見るにあたって、チェルノブイリ原発事故で被爆した村に残った老人たちの厳かで活き活きとした暮らしを撮った「アレクセイと泉」や「ナージャの村」の印象が心に強く残っているため、知らず知らず、この二つと同じような濃密さを期待しすぎていたのだと思う。
 アレクセイやナージャの映画は、本橋さんならでは世界が強く出ている。本橋作品の傑作として後の時代まで語り継がれるものであることは間違いないと思う。
 それに比べて、「バオバブの記憶」は、最初、本橋さんでなくても撮れる映画のような気がした。
 「アレクセイと泉」のように強く心が動かされることや、外界と切り離された映画世界に没入することもなかった。それはたぶん「言語説明」が多すぎるからだろうとも思った。
 それは事実としてそうなのだけど、今日、子供達と一緒に見た感覚として、「すごくいい」とか、「感動しました」というものではなく、「なんかいいよなあ」という、しみじみとした情感に包まれるのを感じた。
 「バオバブの記憶」というタイトルなため、最初、「バオバブ」を中心とした大きな神話的物語を期待しすぎてしまったのが、よくなかったのだろう。
 「理屈抜きに、見た感じのまま・・・」などとよく言われるが、人間の視点は、いろいろなことで歪みやすい。先入観無しに見ることは簡単なことではない。
 何度か見なければ、自分にとっての本当の感覚もわからないのかもしれない。
 とりわけ、ストーリーで見せる映画ではなく、デリケートな「場」の積み重ねによって整えられる全体像を通じて何かを伝えていく映画はなおさらのことだ。
 「バオバブの記憶」は、一つ一つの「場」が大事で、それぞれの「場」が全体のストーリーの一部として利用されているのではなく、場それじたいが、「なんかいいなあ」という微妙な雰囲気を醸し出している。だから、子供も最後まで興味を持って見続ける。
 テレビドラマのようにストーリーに頼って映像を見せるものは、一つ一つの場面は、次への展開を期待させていくステップにすぎない。
 大人が作る大人のためのストーリー映画は、大人がどういうことに興味を持っているかしっかりと認識したうえで作る。しかし、その種のストーリーに興味を持てない子供は、その映画に途中で飽きてしまう。
 「バオバブの記憶」は、人間にかぎらず生物の営みの本質に迫った映画だ。生物の営みの細部は、全体ストーリーの中の一要素ではない。「なんかいいなあ」と感じさせる個々の場面の連続である。
 本橋さんは、もともとそういう視点で、長い間、写真を撮ってきた。
 「アレクセイと泉」などチェルノブイリの事故を題材にした映画のなかでも、極力メッセージ性を排して、「なんかいいなあ」と感じさせる人間の営みを積み重ねていた。しかし、アレクセイの場合、状況が状況だけに、そこに深いテーマ性が浮かび上がることになった。本橋さんが狙ってそうしたのではなく、自然とそうなったのだ。
 本橋さん自身は、アレクセイも、バオバブも、同じなのだろう。どちらも自然に生まれた作品であり、それを見る人の状況によって、見え方が変わる。チェルノブイリ事故の悲劇性を強く訴えようと政治的な活動をしていた人達のなかで、本橋さんの作品は「美しすぎる」から、悲劇性が伝わらないので「絶対に認められない」と非難する人もいた。
 そういう人たちは、自分の観念を軸に、観念に添ったものだけを切り取って、それを「正しい表現」と正当化する。たとえ、そのことによって事実を歪めることがあっても、観念が正しいければ、正しいことにされてしまうのだ。
 本橋さんは、できるだけ自分の観念を排し、対象に向き合う。尺度になるのは、正しさではない。
 表現に「正しい答」を求める人がいるが、現状は常に流動的であるから、固定されてしまった答は、次の瞬間、もはや正しいものとは言えない。にもかかわらず、その答に固執し正当化しようとするから、物事が歪んでいく。
 答は、常に流動し続ける世界のなかで、一人一人が問い続けるもの。正しい一つの答が得られない状況の連続のなか、悶々と揺れ動きながら自分の営みを続けていくことは、すっきりと楽にはなれず、とてもしんどいことだけれど、生きるうえで本質的に大切なこと。それが本橋さんの立ち位置だろう。
 すっきりと楽になれない状態でありながら、その場面ごとの状況のなかで、自分の持てるものを、いじらしいほど精一杯に出す。「バオバブの記憶」のなかでは、家の手伝いをするために学校に通えず、そのことを父に訴えることのできない少年を通して、その感覚が伝えられる。
 アレクセイと泉では、放射能が危険だからという理由で若い人たちが村を離れていく状況のなかで、自分たちの大切な土地に残り、以前から続けてきた営みを守り続けようとする老人たちを通して、どんなに深刻な事態があるにしても、簡単に割り切れないものを伝える。
 「なんかいいなあ」というのは、そのように葛藤を抱えながら、いじらしいほど健気に生きている姿を見る時に感じられる。それは大人とか子供とか関係ないし、他の生き物だってそうだ。百獣の王と言われながら実際は獲物を狩ることがあまり得意でないライオンが、何度もシマウマを追いかけて捕まえきれなかった時の、ちょっと情けなく切ない姿にも同種のものを感じる。
 なにかそのあたりに、何億年も生きてきた生物の営みにとって、本質的に大切なことがあるのではないか。自然界の摂理では、うまく狩れたり失敗したり、うまく雨が降ったり降らなかったり、という曖昧さがあることで絶妙な均衡が生み出されているのに、性急な人間は、そうした曖昧さを強引に排除し、「グローバルスタンダード」などと言って一つの答を固定し、その答で全体を統一することが賢明であると錯覚する。そして、全体性を欠如した部分的な正しさの押しつけによって、長い時間のなかで整えられてきた神技に等しい微妙なバランスを崩してしまうのだ。
 本橋さんは、自分を立派に飾るために正しい政治的メッセージを前面に押し出すのではなく、せっかく種を蒔いたのに、なかなか雨が降ってくれないような時に、「きっとまもなく降るさ」と自分に言い聞かせながら、けっきょく降らなかったりもするのだけど、それでもなんとか、その時々を乗り切っている生物としての人間の姿を親しみをこめて示し続けている。
 きっと、本橋さん自身も、これまでの人生のなかで、何度も何度も同じように呟き続けてきたに違いない。
 この映画にしても、娯楽性があるわけでもないし、わかりやすいお涙ちょうだいの手法で人を感動に導くものでもないから、興行にも苦戦しているのは間違いなく、それでも、「きっとまもなく雨は降るさ」と、自分に言い聞かせながら、毎日、営業に精を出しているのだろう。