彼岸と此岸 〜時の肖像〜

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 以下、今月号のテーマです。

彼岸と此岸1  時の肖像


 現代人の多くは、完成と未完成で世界を分別し、未完成なものが完全なる状態に到るために、階段を一つずつ上っていくことが成長であると思っている。現代
のビジネス計画の多くが、そうした考えのもとに作られ、同様に、子供時代は未完成で、完成だとみなされる大人に一歩一歩近づくものだと教えられている。

 子供が未完成で、大人が完成であるという考えが真実であるなら、適者生存の法則で、進化とともに子供から大人になるまでの時間は短くなっていく筈だ。し
かし、人間は、あらゆる生物のなかで最も子供時代が長い。生まれて間もなく駆け出すことのできる馬などに比べて、人間の子供は、子宮内にいる時間が長いわ
りに、生後しばらく立つことすらできない。

 人間の不確かなる子供時代は、不完全なのではなく、自らの遺伝子のなかに書き込まれたプログラムを書き変える能力を長く保持し続けている状態だと考える
こともできるだろう。子供が親を真似して同じ営みを続けていくだけならば子供時代はできるだけ早く終えた方がいいだろうが、親の世代とは異なる新しい状況
を作り出すためには、早い段階で固定してしまわず、柔軟性に富んだ子供時代が長く保たれた方がよい。すなわち人間の子供時代は、世界から多くの新しいこと
を学び、それに応じて生きていくために自分を変えていく力が優れている期間なのだ。実際に子供の3年は、大人の3年とは比較にならないくらい変化に富み、
その経験を自分のものにしていく力は、大人よりも子供の方が長けている。

 恐怖、苦痛、快楽など生死と直結する記憶は、多くの生物に共通のものだが、変化を認識し、それを見定めながら、その先に必然的に現れてくる未来を読み取
り、自らを修正していく力こそが、人間ならではの生存能力ではないか。その能力が遺憾なく発揮されている時、人間は、世界を敏感に感受し、筋書き通りには
いかない未来を果敢に生きるために、ホルモンを分泌させ、臨戦状態にある。

 計画された未来に縛られ、自分の先行きがわかったつもりになった瞬間、人間は、人間ならではの研ぎ澄まされた感覚を劣化させ、人間としての可能性の多く
を失っていく。にもかからず、現代社会に生きる大人は、大きな過ちを犯す。生まれながら備えている自分の修正力を尊重せず、安易に「ハウツー」などに頼
り、その力を損なう方向に自分自身や子供を導いてしまうのである。

 曖昧な未来よりも過去に作られた固定的な価値観を優先し、それに従うという窮屈な生き方が、現代の管理社会では正当化されている。そのシステムに適応しやすい人が、社会を管理するエリートになりやすい。

 集団生活のための方便として作られた標準的な約束事や時間を、とりわけ重要視しているのが現代社会だが、人間は、本来、別々の”時間”を生きている。一
人のなかでも、心理や体調によって時間の感覚は違ってくる。また、時間は、”出会い”と”相互作用”によって濃密になったり、そうでなかったりする。

 多くの人間は、自らの経験を通じて、自分を取り巻く世界が一つの正しい答で固定できるものではないし、いたずらに変化しているだけでもないことを知っている。

 時とともに変化してきた樹木の年輪や、地層や、皺を見ると、どれ一つ同じものはなく、それぞれが微妙に異なりながら、全てがある一定の変化幅のなかに収
まっていることがわかる。有機物も無機物も、環境変化に対する調整力を持ち、恒常性を保つ能力も備えている。変化していく定めのなかで、自分が自分である
ことを確認し、自らの固有性を維持しようとすることも自然の摂理に組み込まれており、だからこそ世界は簡単に標準化されない。といって勝手気ままになるわ
けでもなく、秩序に向かう力と、混沌に向かう力が均衡している。そして、その緊迫した状態に美を見出す感受性を人間は具えているのだ。

 全ての物事は最終的に無に帰すから地上の出来事にこだわるのは無意味だという、知ったかぶりの説法も一理あるが、それが宇宙の真理だとすると、この地上
に、これだけ多様な生態系は生じない筈だ。異なるものの出会いが数多く用意されているのは、そこに何かしらの意味がある。秩序と混沌の揺れ幅と均衡を絶妙
に整えながら、世界は、恒常性を保ちつつも絶えず変化していくことを欲しているのだろう。

 人間は、食物を得て自らの恒常性を保つだけで健全に生きられるわけではない。未来に向かって自分がどう変化していくかをイメージして、その具現化のため
に関係性を織りなしていくという精神活動によって生を活性化している。すなわち人間は、不確かな未来からエネルギーを得ることができるのだ。

 人間にとって、世界とは、様々な関係性が詰まった時間そのものであり、人間は、その関係性を身につけ、行動のなかに織り込み、自分に固有の時間を世界に
付け足していくことを潜在的に求めている。それがゆえに人間社会は、多様性に満ちて出会いの幅が広がるほどに、生き生きとしたものになっていくのだろう。