昭和藝能東西

 

本橋成一さんの新写真集「昭和藝能東西」(発行/オフィスエム)を見る。民衆のなかに伝えられてきた神楽をはじめ、大衆演劇、紙芝居、チンドン屋、小人プロレス+女子プロレス、キャバレー等など、昭和の頃まで日本各地で大切にされていた藝能を一冊の写真集に盛り込んだものであり、どのページからも、可笑しさと、哀しさが、滲み出てくる。

 この写真を見れば一目瞭然だが、かつて哀は、愛と表裏一体だった。だから哀しみには温かさも含まれている。昨今、哀しみが冷え冷えと暗いものだとイメージされ忌避されるようになったのは、何が原因なんだろうと、ふと思った。

 現代社会にも様々な藝能がある。テレビでは毎日のように漫才師が登場する。また、海外からは頻繁に華やかなショービジネスがやってくる。決して安くない価格なのに、チケットを取るのは簡単ではないと聞く。不況と言われるけれど、娯楽ビジネスだけは今もなお健在だ。しかし、何かが違うという気がする。

 本橋さんが撮った藝能からは、そこに登場する人間の人生が悲喜こもごもが伝わってくる。昔は、人生は芸の肥やしということが当たり前のように言われていた。しかし、最近は、そういう言い方は古臭いものになっている。人生のことを忘れさせてくれ、非現実的な世界にしばし遊ばせてくれるようなものを人々が望んでいるからだろうか。

 昔の藝能を、ずっと保存し続けなければいけないなどとは思わない。藝能は、時代ごとに大衆の中から新しく生まれ、育てられるものであって、現代には現代の藝能があればいい。とすれば、現在、テレビなどに毎日登場するような漫才師達、もしくは、コンピューターゲームが現在の藝能ということになって、そのなかに、現代人の気持が反映されていると考えていいのだろうか。

 どうしても何かが違うような違和感がある。現在の藝能は、大衆の中から生まれているというよりは、テレビ等のメディアをはじめ大資本が仕組み、一種の目くらまし戦法のように人々を誘導しているように思われてならない。

 レーザー光線などを使った派手な演出、大音響、色彩豊かな照明、大きな声で押しの強い態度で人々に迫り続ける。人々は、自分の意思を捨て、心身を委ねきれる安心感に浸る。

 世知辛い現実を、束の間、忘れることができる時間。大衆藝能の喜びは、そうした忘我の境地であることは確かだ。

 しかし、一つ大事な違いがある。賑々しさや大きな声(音)で忘我の境地に導く性質のものは、人間の神経を鈍麻させる。一旦、それに慣れてしまうと、さらに過剰な演出と刺激が必要になる。そして、その繰り返しのなかで、一人ひとりのリアルな人生の味わいや愛着とは別の所へと導かれていく。

 本橋さんが丁寧に拾い集めた藝能には、豊かな機微がある。それらに触れれば触れるほど、さらに深い機微が感じられるように、人間の感性をよりデリケートにしていくような作用がある。そして、非日常な空間のようでありながら、それを作っている生身の人間の存在を身近に感じることで、自らのリアルな人生と重ね合わせ、自らの人生への愛着や味わいにもつながるところがある。

 自分は自分、人は人、その人生が重なり合う必要はない、という醒めた意識が広がっているのが、現代社会だ。だからこそ、哀しみは、個々に切り離され、人々を結ぶ紐帯にはならず、暗く惨めなものであるかのように整理される。

 哀しみと無縁の人間など存在しないのに、哀を隠して、何の悩みもないように楽しそうに振る舞わなければ格好が悪いという社会。個々の部分は、一見、華やかに見えても、全体として捉えると、うすら寒いものでしかない。

 本橋さんは、人と人との間合いをとても大切にする写真家だ。その曖昧なコミュニケーションは、現代の合理的社会のなかで、うまく意思伝達ができないこともあるだろう。

 しかし本橋さんは、意思伝達自体を目的にしているのではなく、たとえ明確に伝わらなくても、言うに言われぬ微妙な感覚で、互いに共有できる何かを大切にしたいと思っている。この時代に、「昭和藝能東西」という写真集を出すことじたいが、そういう気質の現れだ。原因と結果、目的と達成という二つのポイントを直線で結ばないと気がすまない人にとっては、いったいこれが何の役に立つの、ということになる。

 しかし、すぐに効果がわかるようなものほど、人々が飛びつくのも早いが、飽きられるのも早い。すぐに消費されて無くなっていくのが、世の摂理だ。

 テレビやショービジネスのように人目を引こうとして過剰な演出をするわけでなく、モノクロ写真で淡々と、かつては確かに存在した可笑しく哀しい藝能を今に伝えることが、本橋さんにとっての芸だ。自分自身の人生を肥やしにして、どんなに時代がデジタル化しようとも決して消えることのない人間の心の機微を、含みを持たせて伝えていくこと。この本橋さんの“含み”こそが、消費社会のなかで簡単に処理されない懐の深さとなり、芸の味わいになり、長く人に愛されるものを育てていくのだろうと思う。