表現の目的と、そのスタンスについて

 昨日、恵比寿で、パトリス・ルコントの「DOGORA」と、溝口健二の「雨月物語」を見る。

 パトリス・ルコントの映画は、彼が感動したフランスの音楽家エティエンヌ・ペルションの曲「DOGORA」に、カンボジアに住む人々や風景などのドキュメント映像を重ねたもので、役者のセリフもシナリオもない「壮大(すぎる)音楽と映像」だけで作られた映画で、彼はこういう映画を以前から作りたかったのだと言う。

 そして、溝口健二の映画は、野心を抱く男の滑稽さと哀しさと、小さな幸福を望む女の美しさと気高さを描いたもので、おそらく監督自身のなかにある確固たる規範に基づいて、古典を題材にしたフィクションを徹底的に極め、美に昇華させたものだ。

 「表現」であるから、どちらの監督も自らの内側にある価値観や規範に添って作品を作っている。最近では、作り手が何を伝えたいのかかさっぱり感じられない表現が多く(といって、わかりやすければいいということではない。)、敢えてわけがわからなくして、そのわからなさを「価値観を固定化しないことだから良いことだ」などと説明し、表現の力の無さを煙に巻くような自己正当化も見られる。

 しかし、私たちが生きる人間世界というのは、社会秩序を維持する必要性から生じる「価値観を固定化したい思いに添ってできたもの」と、人間も含む自然本来の営みに触れる時に感じる「人間ごときが価値観を固定化したところで、どうにもならないと感じるもの」でできており、「価値観を固定化しないという概念」をコンセプトにした作品を見るくらいなら、自然そのものを観察していた方がよほど感じるところは多い。

 敢えて人間の手で作品を作るのは、他の誰のためでもなく人間のためであるから、その人間に対して、人間が陥りやすい「価値観が固定化され狭く閉じた世界」の外にあるものを強く実感させるくらいのものでなければならないつまらないと思う。

 実際にそれだけの力があるかどうかは別として、そういう意思を持つことが、表現者の規範となるのだろう。

 溝口健二監督の「雨月物語」ができたのは、1952年で、経済成長を旗印に「お金」が「神様」のようになった時代のはじまりであり、そのような価値観と社会秩序の固定化を、「自分相応に生きることの潔さと美しさ」の力で差し貫いている。50年以上経った今でも社会の表層変化はあっても人間の内面の価値観は変わっていないから、溝口作品は、古く感じられない。目に見える時代設定とか社会環境があまりにも異なるから、その部分に囚われがちな人は、自分ごととして感じられないかもしれないが、本質的な部分でモノゴトを見る人にとっては、狭く閉じた価値観の中で生きている自分を省みずにおれない作品世界だ。溝口作品は、そうしたことを教訓として頭に働きかけるのではなく、「美」の力で心に働きかけるがゆえに、身につまされるような思いになる。そこまで心が動かされてはじめて、表現に力があるということだと思う。

 ただ、現在は、煙に巻いたような象徴的な表現が多すぎ、その中で、溝口作品のような象徴的な手法を借りた作品づくりで説得力を持てるかどうかは別の話だ。現在の混迷から新しい見晴らしを得るためには、象徴の力によってではなく、現実と直接的に触れながら、現実認識を覆すほどのものでなければならないと、私は思っている。

 パトリス・ルコントはどうだろう。私は、彼の初期の作品の、人の心の機微に語りかけるようなところが大好きだったのだが、今回の作品には失望した。

 彼がこの映画を作った発想については理解できる。壮大で生命力溢れる音楽と、生命力溢れるカンボジア。その二つを組合せて理屈抜きに「生命のパワー」を伝えようとする。

 生命力が衰えているように感じられる文明社会に、彼自身の規範に添って、「生命のパワー」を吹き込もうとする試み。しかも、リアリティを増すために、フィクションではなく、カンボジアのドキュメント映像を活用して。ドキュメントで切り取られた力強い人々の営みと力強い音楽によって「生命のパワー」をいただいた、という鑑賞者も多くいるかもしれない。

 しかし、それでも私が失望したのは、彼の「生命」の捉え方が、あまりにも、西洋文明の影響化にある社会で固定化してしまっている価値観であると感じられたからだ。

 壮大なシンフォニーで指揮者が激しく指揮棒を振り、その映像と、プノンペンの町中を走り回るバイクのイメージが重なる。トンレサップ湖の水上生活者たちの生活シーンや、巨大なゴミ集積者で生活する人々の行動などカンボジア人の営みに対して、パトリス・ルコントが感動した壮大な音楽が、延々と重ねられる。バイクの音、雑踏の物音、人の声、水に飛び込む音、鳥の鳴き声、風がそよぐ音など本当はそこにあるべき全ての音が切り捨てられて、彼の好きな音楽だけを聞き続けなければならない。この音楽を好む人はいいが、私はまったくそうでなかった。音楽が好きか嫌いかではなく、カンボジアの風景や人々の生活のリズムに、このドラマチックな音楽はそぐわないと感じてしまうのだ。

 カンボジアに行ったことがある人はわかるが、そこでの営みは、もっとのんびりしたものだ。みんなバイクを乗り回しているわけではない。ほとんどの男達は、日中、ハンモックに揺られてニヤニヤしているし、働き者の女達は、トンレサップ湖でとれた魚を道ばたでトントントンとリズム良く切り刻んでいたし、アンコールワット内の池に子ども達がドボンと飛び込んで、カラリとした陽気さがはじけていた。

 もちろん、カンボジアにも生命力が溢れているが、その生命力は、シンフォニーの指揮棒に合わせて盛り上がったり、抑制されるような類ではない。もっと違うリズムが内包されている。そのリズムはとても微妙なものだ。映像を通して伝わって来るであろうその繊細なリズムを味わいたいのだが、大きな音を奏でるクラシック音楽が、そうした気分を許してくれない。見る側の想像の余地をまったく与えない勢いで、音楽ばかりが鳴り響き、こちらの感情までが支配されるような気分になる。

 音楽をメインにするのなら、音楽だけを聞けばいい。この映画は、タイトルに「DOGORA」と音楽の曲名が冠されている。音楽主体なのだ。もし、音楽の効果を出すために映像を使うのなら、ドキュメントではなく、完全なフィクションでやるべきだった。ドキュメント映像というのは、写される相手あってのことなのだから、相手の事情をまったく無視して、自分の都合の良いように素材化してしまうというスタンスを私は好きになれない。

 この映画に対して、「撮影と編集の緻密さに言葉を失った」とか、「カンボジアという土地とそこに住む人たちに対するルコントの熱い思いが伝わってくる」という欧米メディアの絶賛の声がある。確かに、ルコントの熱い思いはあるし、その思いにそって撮影と編集は緻密に行われている。

 しかし、この場合の緻密な編集というのは、映画に登場する人たちを、作り手の意図にそって演じさせるための緻密な努力ということだ。フィクションなら構わないが、ドキュメントでそれを行うべきかどうか。

 普遍的な価値観が一つと信じる人は、自らが正しいと信じる一つの価値観に全てを当てはめて世界を構成して表現してもいいのだと心のどこかで信じ込んでいるが、それは一神教の発想だ。

 世界はもっと多層で、それぞれの層が微妙に呼応し合い、もっとデリケートな音を奏でている。そのハーモニーに敏感な世界が多神教世界であり、その世界の住人にとって「いのち」とは、そのハーモニーのなかにこそ内包されているものだろう。

 カンボジアの風土からは一神教が育まれなかった。その風土世界のリズムが、一神教的な世界観とは異なるからだ。カンボジアの「いのち」のハーモニーに内包されているリズムを掬い取ってカンボジアを見せることが、カンボジア世界に対する敬意であると私は思う。

 ルコントは、今まで<DOGORA>のような映画を作りたかったが、勇気がなくて作れなかったと告白する。もしそうならば、勇気がない時の方が、逡巡があり、配慮があり、その微妙な機微が、作品の質を高めていたのではないかと思う。そのデリカシーが、彼の作品を他に無いものにしていた。

 (おそらく)<DOGORA>の壮大な音楽に勇気を得て(というより、そのドラマチックなリズムに駆り立てられて)しまったことで、逡巡が弱まり、それがゆえに、対象に対する敬意よりも自己主張が勝る結果になってしまったのではないかと思う。


風の旅人 (Vol.21(2006))

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