第915回 不登校をきっかけに? レジリエンス

 現代社会の様々なストレスの中で心が折れてしまう人が増えているということで、その対策として、レジリエンスという概念がよく取り上げられる。
「精神的回復力」「抵抗力」「復元力」「耐久力」といった意味の心理学用語として使われ、優れたスポーツ選手や、一流のビジネスマンは、このレジリエンスの力が優れていると紹介され、その「心構え」を、逆境を乗り越えるヒントにしようというのだ。
 もちろんレジリエンスは、「心」のことだけでなく、生命体すべてに当てはまる概念であり、地球の長い歴史の中で、生物は、何度も危機的な状況を乗り越えて存続してきた。近年では、メルトダウンした原子炉の中で生存し続けている微生物や、上空10,000メートルの、水も空気もなく強烈な宇宙線にさらされた場所でも生きている微生物が存在することが報告されている。 
 生物の中には、様々な外界の事象に対応していくための何かしらの力が備わっているのだろう。環境の大きな変化に対して、一時的に危機的な状況に陥っても、回復することができる力。しかも、ただ回復するだけでなく、新しい機能を身につけて生き延びる力。
 たとえば害虫対策として、いくら強力な殺虫剤を作り出しても、すぐに耐性を身につけた虫が現れる。
 また、ヨーロッパルネッサンス後に、医療をはじめ様々な科学技術が発展していったことも、その直前に、ペストによって人口の半分以上が失われたという歴史事実とは無関係でないだろう。
 レジリエンスは、生物や心理の領域だけでなく、社会システムの問題としても研究が進んでいる。
 インターネットなど情報系のシステム、経済や金融などの社会システム、あるいは企業の不正やトラブルに対応するシステム・・、政治においても、紛争など危機的状況の回避や、経済摩擦その他の問題を解決していくために、レジリエントなシステムをどう設計し運用していくのか、多くの分野にまたがる専門家が議論を重ねている。
 しかし、現代人は、原因をつきつめて、その対策を練るという思考の癖があるため、「レジリエンス」にしても、ともすれば管理のための手段、テクニックとして扱われてしまう。事故やトラブル、クレームの起こらないようにするためにはどうするか。成功するためにはどういう心構えが大事かと。 
 そういう心構えは、現在、我々が共有している価値観の中で正しい答えを探し求めることにすぎず、本当の意味でレジリエンスというのは、そうした既存の価値や常識が覆ってしまうほどの逆境力なのではないか。
 生物進化の過程においても、生命35億年の歴史という言い方がよくされるが、そのうち25億年以上が、酸素の中で生きていけない嫌気性の微生物の時代で、10億年前くらいまでの地球上の酸素量は、現在の1%ほどだった。(生物進化に影響がなかったものの、20億年前の地球にも十分な酸素があったのではないかとする説もある。)酸素量が現在の水準に近くなるのは、カンブリア大爆発が起きた5億年ほど前のこと。シダ類など植物が大繁栄する時期を境に、地球上の生存常識は180度変わり、「酸素を嫌う生物」しかいなかった時代から、酸素がなければ生きられない生物が地上に溢れる時代へと転換したのだ。
 同一条件、同一の常識のなかで逆境力を発揮して何とかしぶとく生き続ける力ではなく、条件や常識が変わってしまった時、それに応える力こそが、レジリエンスの本質なのだと思う。
 現代社会において、常識を変えてしまう力とは何だろう。
 これまでの常識や価値観というのは、戦後の高度経済成長期の常識の範疇で、人生いかに生きるかを決めていくこと。偏差値の高い大学に入学して、有名企業に就職して、終身雇用に守られながら出世していくという考え方。留年や浪人やドロップアウトは履歴書の傷であるとされ、何歳までに学校を卒業して、何歳までにきちんとしたところに就職して、何歳までに結婚してと、人間をオートメーションラインを流れていく電気製品のように扱う価値観。その価値観の中で、不良品を特定する社会通念。
 そうした価値観の生産ラインに乗せられた状態で精神的に誘導され、他人が持っている物を持っていないと恥ずかしいとか、他人がやっている娯楽や趣味や自己啓発その他のことを自分もやっていなければならないという強迫観念を植え付けられてしまう。
 日本は、敗戦後、急激に経済復興を遂げ、そのことをもって日本人の優秀性と結びつける人もいるが、優秀であることはどういうことかを、今一度問い直す必要があると思う。
 高度経済成長を推進したシステム、および20世紀経済の牽引力は、規格品の大量生産、大量流通、大量消費だった。つまり、標準化を無理なく実現できることが、そのシステムにおいて、”優秀”であった。
 標準的なアイデアを考えることが得意だったり、それを行き渡らせる仕組みを考えられる人、そして、標準化に素直に順応する人が多いほど、良い結果を生み出しやすいということ。
 けっきょく、戦後の日本の強みは、この標準化への適性があったということだろう。そして、日本が停滞をし始めたのは、”多様化”という言葉を多く耳にするようになった1990年代からだ。
 標準化から多様化へと時代の局面が変わってきた。にもかかわらず、多様化への対応の仕方を、標準化しようとする。たとえば”個性教育”とか、”多様化社会に対応する”という類のセミナーなどが典型だ。
 標準化全盛の時代と構造が変わらないまま、多様化の時代に対症療法で応じようとしている状態が、この20年の日本のような気がする。
 多様化時代の価値観というのは、他人のやっていることなんか参考にならない、気にもならないという、今日の日本人にはちょっと想像できない感覚のうえに築かれていくのではないか。日本社会のなかで、そうした感覚は、自分勝手で周りとの協調関係を乱すものと否定的に捉えられがちだが、税金を納めるとか、決まった日にゴミを出すとか、挨拶をかわすとか、マナーを守りながら、他人の目を気にすることなく自分が決めたことを自分の責任でやることが当たり前の時代になりつつあるのではないかと思う。
 それは、”自己責任”というより、”自恃”と”矜持”にもとづく生き方。自己責任という言葉は、個人が陥った結果に対して誰が責任を持つのかという分別が背景にある。しかし、自恃と矜持には、結果とか責任という分別はなく、納得感こそが決め手になる。結果や責任は、社会的基準であり、一人の人生の成就を社会的基準の中でとらえるのか、それとも一人の中で、”それでよし”とできるのかの違いだ。
 ”多様化社会”というのは、人生の納得感を得る道においても多様であるということで、現在、日本社会に起こっている様々な問題を標準的な尺度で分析したり対策を練っても、解決にならない。
 苛めや引きこもり、不登校、高齢化と家族の問題などに対して、一般的なカウンセリングテクニックや、中央官僚の調査や統計的資料に基づく指導では、むしろ逆効果ということもあるだろう。それらの仕事に携わる人達が、従来の価値観の範疇で世界や人生を見ているのか、それを超えるものを見ているのかで大きく違ってくる。
 自分の子供も生命体であるかぎり、きっとレジリエンスの力が秘められている。
 その力を活性化することこそが、標準化の著しい世界の中で陥ってしまった苦境から脱する道だろう。そのことを前提に、大人は、子供とどう接するべきなのか。
 大人が生きてきたこれまでの世界の常識を子供に押しつけるのではなく、かといって子供を受容するだけの庇護者や、相談相手であるだけでなく、子供と自分が立っているこの世界が、いかに脆弱なものであるか、身をもって感じられる状況づくりが大事だろう。
 本来、子供は、大人が作り上げている欺瞞の世界に対して敏感であることが多い。その反発が、自恃と矜持の道につながるのか、それとも、その場しのぎの逃避につながるだけなのか。
 窮地に陥った動物は、いかに上手にそこから逃げるかが大事ではあるけれど、逃げているつもりで、実際はより狭いところに追い詰められているだけのこともある。
 野生動物の場合、鋭い牙も爪もない動物は、敵に襲われると素早く逃げるが、崖っぷちに追い詰められれば、背中を向けるのではなく、正面を向いて、気迫を見せて相手をたじろがせ、隙を見て、猛然と相手の横を走り抜けるということがあるだろう。
 追い詰められた時の気迫こそ、自恃と矜持の賜物であり、それがレジリエンスにつながっている。
 色々な世界があり、その選択の一つとして、逃げることもあれば、立ち向かうこともある。
 まずは世界の多様性を知ってもらうこと、その上で、野生動物のように、生きのびるための気迫を漲らせるて、その都度、自らの判断で果敢に選択すること。
 我慢して学校に通い続けている子供も、つまづいて不登校になっている子供も、そういう力を子供が培えるように、どういうフォーマットを準備できるかが、この過渡期に生きる大人(親)の大きな課題なのだろうと思う。  

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