第903回 不易流行

 「不易流行」に関する講演会があると誘われ、次号の風の旅人のテーマ「時の文(あや)」とも関連があると思い参加したが、特に新たな視点が得られたわけではなかった。しかし、この種の講演会や対談で新たな視点を得られることは稀であり、そうでなくても話を通して色々と矛盾や歪みを感じることが自分の思考の出発点になることが多く、これはこれで、私としては重層的に考える機会ともなった。

 一昨日の写真フェスティバルにおけるトークショーも、写真フェスティバルの参加者をトークショーの壇上に登らせてヒーローのように持ち上げることで大事なことがごまかされ、自己顕示欲や虚栄心という本来は表現からできるだけ取り除いていくべきものがエピソードを通して正当化され、うぶな人に、その小さなヒーローに対する羨望を感じさせる仕掛けで終わってしまい、写真について深く感じたり考えていく場とは遠いものになっていた。
 講演会という設定で、壇上に立つ人のこれまでの軌跡がダラダラと説明される設定のものには、その種のものが多い。そういう権威付けで30分とか1時間も貴重な時間が割かれてしまうのは、あまりにももったいない。
 前口上抜きに、その人自身から出てくる言葉から始めることで、未来形の対話が展開できる。前口上が多いと、せっかくの講義(対話)の時間が過去から現在までの話に費やされてしまい、肝心の未来については、「以上を踏まえて、これからみんなで考えていきましょう」という、課題丸投げの言葉で終わってしまう。この手のものが実に多くて、対話の場なのに、脳幹が揺さぶられない。
 それはともかく、「不易流行」のことだが、私は、この言葉を、風の旅人の次号のテーマ、時の文(あや)のサブタイトルとして位置づけている。
 「不易流行」を『変わらないものと変わるもの」という程度のことで説明されることが多い。昨日の講演会もそうだった。まあそれが一般的な説明ではあるが、一般的な説明は広く流布しているので、今さらそういう説明を聞いても何も触発されるものはない。
 単純に「変わらないものと変わるもの」という説明ならば、「不変変化」でいいじゃないか。敢えて「不易」という言葉を使う必要はない。芭蕉という底深い思索人間が、何の企ももなくこの言葉を使っている筈がないと、天の邪鬼な私は思う。
 そもそも「易」というのは、陰陽二つの元素の対立と統合により森羅万象の変化法則を説くもので、「変化」の元に、「陰陽二つの元素の対立と統合」という物の見方が発生している。ならば、「不易」とは、「陰陽二つの元素の対立」という物の見方をしないという風に自然に受け取った方がいい。簡単にいうと、真の意味で「ありのままに見る」ということ。次々と二つの元素に分節化しながら世界を見るという分別が、完全無欠な状態にズレや歪みを生じさせ、そこから様々な変化が発生していく。「不易」とは、あらためて、無分別の境地に立ち返れということではないか。つまりそれは、普遍であり永遠。それが芭蕉俳諧の醍醐味なのだと思う。
「荒海や 佐渡によこたふ 天の河」でもなんでもいいのだけど、芭蕉の句は、句の中に二つの元素が詠まれていても、どちらがどうと分別するものではない。
「朝露の一滴にも天と地が映っている」という開高健の言葉も同じだ。
 永遠の風景というものは、そういうもの。
 それに対して、『流行」が、ただの変化を指しているのかというと、決してそうではない。
 『流行」をテーマとした講演会などにおいては、流行現象を時系列に追い、その時々の時代のことを説明しながら、その結論として、「時代は変化しているけれど変わらないものがある筈だ」「多くのものが変化していくなかで、大切なものは変化しない、それは何だろう」という、変化に対する対立軸としての普遍性(正しい答)を探し求めるという思考に導かれていくケースが非常に多い。
 流行という変化の中に真理を読み取るのではなく、流行という変化を引き合いを出しながら、どんな時代にも変わらない正しい答えを探すわけだ。
 その結果、昨日もそうだったが、先行きの読めない時代を生き抜くために一人ひとりの自立が大切だとか、安倍政権の論法と似た、”論理的に反論しづらい正しさ”でまとめられやすい。
 なぜ”論理的に反論しづらい”のか。それは、そういう正しさというのは、標準化や規格化しやすい考えの方を正しい側に設定して、標準化や規格化しにくいものをダメなものを決めていく論法だからだ。
 標準化や規格化しやすいものというのは、たとえば数値化しやすいもの、説明しやすいもの。
 人の評価を点数で判断すること。また具体的に列挙しやすい業績で判断すること。プロフィールに色々と書き連ねて立派な人らしく見せびらかすのもそういうこと。具体的に何をやっている人かよくわからないけれどその人がいるだけで周りの雰囲気が変わるという貴重な人は、その良さを論理的にはうまく説明できないので、公の場に引っ張り出されることは少ない。政府の審議会のメンバーにはなることもない。
 それはともかく、数値化しやすく標準化しやすい価値観である「自立」の正しさが説かれると、論理的には非常に反論しづらい。しかし、現実には、「頼りない」ということが、力になっている人もいる。「頼りなくて、放っておけない」と周りに思わせる人がいて、その人を助けることが悦びになる人も現実には存在している。
 この『頼りなさ」の力は、「自立」の基準に比べて標準化しづらい。頼りない人は誰でも周りが助けてくれるのかというとそうではなく、謙虚さとか、愛嬌とか、いろいろ複雑精妙なものが入り交じってこその力だ。だから、「自立は力だ、なぜならば・・」という論法に対して、『頼りなさは、力だ、なぜならば・・・」と標準的な解で切り返せない。
 現実社会をよくしたいという思いで標準化しやすい正しさを前面に押し出す人は、実はそのスタンスが、この現実社会を歪めてしまっているということに気づいていないことが多いのだけれど、その矛盾を指摘することもまた、標準的な論法を使えないために簡単ではない。どうしても話が重層的になり、結論を性急に求める人は、単純な層の話にしか興味がないので、重層的な話にじっくりと耳を傾けないことが多いのだ。
 しかし冷静に考えてみればわかることだが、標準化とか規格化というのは、それを推進していこうとする人々にとって、すべてを平等に分け隔てなくという意識の賜物であるのだけれど、実際には、標準化できるものとできないものを分節化して管理していくことでもあり、結果的に、標準化しづらいものを排除していくことにつながってしまう。
 明快な言葉だけで白黒を決める傾向が強くなると、文脈を読むということが疎かになる。
 被災地の復興なども、地域ごとの微妙な違いの中から、その地域の特徴に応じた解を探り出していくという地道で想像力の要する仕事が疎かになり、地域の事情に関係なく、中央で予算を握っているところが、標準的で平等的であるというわかりやすい基準と論理で計画設計したものを押し付けていくということがまかりとおってしまう。
 頭の良さ、優秀さが、標準的なものにどれだけ通じているかで計られてしまう社会においては、特殊な事情を訴える声は無知の我が儘でしかなく、例外扱いとして片付けられることが多くなる。
 だから、政府をとりまく様々な審議会のような、社会を良くする為という大義名分の話し合いや、そういう場に呼ばれやすい人を壇上にあげる講演会などは、だいたいにおいて、その人のポジションを権威付けしながら、標準化しやすい論理ばかりに終始しやすい。標準化しやすい論理だから、筋の通った話のように聞こえてしまう。筋の通った話に聞こえてしまうところに、大きな落とし穴があることに気づかずに。
 落とし穴というのは、標準化に合わせなければ生きづらくなる社会が、よりいっそう強化されていくということだ。しかし、グローバルスタンダードという言葉や、異常な就職戦線もそうだが、標準化の圧力によって焦って自分を見失ってしまうと、外部環境の変化に翻弄される生き方になってしまい、雑草のように土の中で焦れずに待ち続けるという生存戦略が放棄されてしまう。
 自立は自分で立つこと、自律は自分を律すること。自分が何をすべきか明確に考えて答えられる人は、自立している人とみなされやすい。そして、そういう人が生き生きしている人と判断されやすい。しかし、何をすべきか明確に答えられず、宙ぶらりんの状態で悶々とし続け、自分を律しながら生きることが、自立に比べて劣っているとは思えない。
 私は、20歳の時に、大学を中退して二年間、諸国を放浪していたが、その時、留学、研究、企業派遣、ジャーナリスト、ボランティアなど明確な目的をもって外国に来ている日本人に会たびに、あなたは何をしているのか? 何のために海外に来ているのか?と問われ、うまく答えられず、中途半端な人間を見るような目で見られることが多くあった。
 そういう中途半端な状態は、他人から見て評価しやすい開けきった花ではなく、蕾の状態であり、さらに中途半端な状態は、地面の中の雑草の種のような状態だ。
 多くの人は誤解しているのだが、雑草の逞しさは、生きる場所を選ばない強靭さではない。むしろ、雑草というのは頼りなくて、雑草の種を植木鉢に植えても育たない。
 雑草の強さというのは、地面の中でひたすら自分を律して、自分が生きるうえで最適なタイミングを待つことのできる力なのだ。自分が表に出る時期を間違えれば生きていけない。性急さは禁物なのである。
 そして、頼りないゆえに、外部の環境変化には敏感なのだ。頼りなさを力にしている人にも、そういう勘の良さがある。
 自分の弱さに対して素直でない人の方が、自分を大きく見せようとして性急に強引に事を運ぼうとしやすく、危うい。そういう人を権力者に選び、現在、改憲論議で急浮上している「緊急事態宣言・危機管理規定」の権限をもたせてしまうと、この国全体が危うくなってしまう。http://tcoj.blog.fc2.com/blog-category-9.html
 こういう権限は、災害や戦争などにおいて首相の判断で緊急的な政令を敷いて、それをもとに国民を束ねる権限であり、国家総動員法という悪夢が蘇る。
「国民が一丸とならなければ乗り切れない試練である。だから、意思決定をスムーズにして、素早く実行することが大切である。アメリカなど他の国もそういうシステムになっている。」という論法は、標準化しやすい論法ゆえに、反論しづらく、説得力があり、多くの人に支持されてしまう可能性が高い。日本の首相は、国民投票で選んだ大統領ではなく、組織票で国会議員になった政党集団の保身の為に誰をトップにすれば、その政党集団にとってメリットがあるかという駆け引きで選ばれているにもかかわらずである。
 日本人が伝統的に身につけてきた力というのは、アメリカのように、表に現われやすいもので計られるものではない。この国の自然環境のように、世界は刻々と変化するものであり、その変化の兆しやタイミングを読む事は、生きていくうえでとても大事な力であり、それは、雑草のように、地面の中で自らを律して、ひたすら待つ力でもある。
 そのうえで、自然の偉大なる力の前で自らの頼りなさを知ってきた日本人は、世界(対象)を固定的に見て、そこに心を居付いてしまうことは賢明でないという文化を築いてきた。
 剣術であれ、伝統芸能であれ、職人であれ、動きの中で対象を掴んでいく心得は共通している。
 「不易流行」の「流行」が説く意味は、そこにあるのではないか。変化することがいいとか悪いという分別を説いているのではなく、「変化の全体を見る視点」。それが芭蕉の俳句なのではないか。
 「不易」は、「一滴の露に天地の映り込みを見る」という物事を分節化しない視点。そして、「流行」は、変化を部分ごとに分けて分析するのではなく、流れ全体を一挙にとらえる視点。
 これは芭蕉に限らない。たとえば道元の有名な歌がある。
「春は花 夏はほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷やしかりけり」
 よく誤解されているが、この歌は、単に日本の四季の美しさを愛でるものではない。
 春の桜や、卯の花の散る頃に奔放に鳴くほととぎすは、散りゆく宿命に重ね合わせられ、秋の満月も、冬の雪も、欠けたり溶け消える宿命のものが束の間見せる玲瓏たる美しさである。いずれも、儚き無常の世を悲観するものではなく、自らの命を存分に発揮しており、その晴れやかさや清々しさが称えられている。
 西欧的に、始まりと終わり、生と死が対立的に捉えられるのではなく、死即生、無即有という豊饒自在な世界。そこから、俳句、歌、日本画、茶、花など、様々な日本文化が生まれてくる。
 狭い茶室が、無辺の広さを宿し、一輪の花は100輪の花よりも花やかさを思わせる。そして、利休は、「開ききった花は活けてはならぬ」と説く。
 『不易流行」という言葉は、実に深い。
 世界を分節化しない、そして、一つの正しい視点や概念に居付かないということで、究極において、この国の風土、自然との合一ということになる。
 だからこそ、”わび”や”さび”が、不十分で満たされないものではなく、豊かなものに転化する。
 アベノミクスというのは、開けきった花を生き生きとした生の象徴だと捉えているようなところがあるが、そういう人が「美しい国」を語ることの矛盾が、現代日本の矛盾なのだ。
 「不易流行」というお題をもとに対話の場を設けるのであれば、「茶室の床にはただ1輪の花、しかもつぼみを生けること」の心得から始めた方がいい。
 にもかかわらず、この手の多くの講演会などにおいて、講演者のプロフィールの列挙や、これまで出してきた著作をひけらかすところから始めてしまうことが非常に多いというか、当たり前の事態となっているが、それはテーマへの向き合い方からして矛盾しており、だから、どこにでもある標準的な教養講座になってしまうのだ。
 せっかく問題意識を持って集まってくる人を相手にする学習の場なのに、ある種の権威付けによって本質とはかけ離れたものを有り難く頂戴したような気持ちにさせられる機会が多いのも、現代日本の痛々しい現状かもしれない。
 


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