第902回 狭間の好奇心

 京都に来てから4回目の風天塾を終えた。バイオミミックリー(自然界の生物が有する構造や機能を模倣し、新しい技術を開発すること)の第一人者である石田秀輝さんと、自然写真家の今森光彦さん。ジャンルは異なれど、お二人には共通点がある。それは自然から学んだものを創造の種にしていること。そして、もう一つは、石田さんの研究テーマである”間”、今森さんの言葉でいうと、”端境”という、ものごとが未分化だったり、交じり合ったり、緩衝地帯であったり、どっちつかずのところに注目しているということ。
 聖なる領域と俗なる領域。信仰と無宗教、自立と依存、仕事と遊び、夢と現実、仕事と家族、どちらがまともなのか、どちらが大事なのかと、現代社会においては対立的に捉えられ問われるものが多い。
 実際には境界線をはっきり引けないことの方が多く、曖昧な状態で生きていることが普通だが、どっちかを優先してそこに自分を縛り付けようとする力が、社会からも、自分自身の中からも出てくることがある。宙ぶらりんの状態が許せないというように。そして、縛り付けて固定した方が、安定するかのように。
 しかし、そのように一方に偏ってしまうことで失ってしまうものもある。
それは、”狭間”が持っているポテンシャルだ。
 たとえば、ショックを和らげる力とか、温度を調整する力とか、暮らしの周辺を見渡しても、狭間の効能を活かしたものは多い。
 もしも自転車のチェーンが少しの緩みもなく張っていたら、道路の凸凹のショックを吸収しきれず切れてしまう。室内と外部のあいだに縁側があり、障子があれば、外気の温度差を和らげることができる。
 石田さんも今森さんも、「端境」や「間」を自分の立ち位置にして、両方が見えるという状態にいる。どちらか一方に軸足を固定している人から見ると、中途半端ということになるかもしれない。
 たとえば今森さんは、琵琶湖の里山の人々と交わり、親しくなり、その懐に入り込んで写真を撮っているが、里の人からは、「写真を撮っている暇があったら、手伝え」と、しょっちゅう言われる。
 石田さんも、沖永良部島で島の人々に習いながら畑を作り、作物を育てようとするが、厳しい環境のなか、すぐに枯らしてしまい、島の人から、「何もわかっとらんな」と言われてばかりだ。
 しかし、それでもやはり両方が見えるポジションにいる人は、その人なりの役割がある。
 それはたとえば編集という仕事もそうで、編集者は写真家が入り込んでいる現場のリアリティを、写真家ほどわかっているわけではない。
 編集者の仕事として写真を選んだり構成したりしても、もしかしたら写真家からは、「コイツは何もわかっていないな」と思われているかもしれない。
 だったら、写真家に任せてしまえばいいというわけではない。編集者は、写真家がもっているものと、写真家が知らないものを結びつける役割があるのだ。その結びつけによって、写真家が、自分でも気づいていなかったことを発見するということもある。
 ただ、編集者は、常に、「自分は中途半端にしかわかっていない」という意識を持ち続けることは大事だと思う。自分は中途半端だという意識が強いから、ものごとに注意深くなれる。
 今森さんや石田さんも、現場に深く入り込みながら、たぶん自分の中途半端さを深く自覚し、ものごとに対して注意深く接し、現場の人がもっているものと、現場の人が知らない何かを結びつけることで、その現場にだけ通用するものではなく、どこででも通用する普遍的な何かを生み出そうとしている。外ばかり気にするグローバリズムではなく、ローカルの部分を深く掘り下げることで、グローバルでも通用するエッセンスを探り当てようとしているのだ。
 そして、注意深くなることで、自ずから生まれてくる問題意識がある。
 社会でも企業や学校でも、”間”や、”端境”にいる人は、色々なことが見えてしまい、問題意識を持ってしまうから、ジレンマを感じてしまう。
 それが辛くて辞めてしまうということが頻繁に起きるのだが、自分を何かに縛り付けて安心させることができない人は、どこにいっても宙ぶらりんの感覚は解消されない。
 そういう人は、”間”や、”端境”で生きることが宿命づけられており、ならば、間や端境の役割を自覚しながら生きた方が、心身が健やかになる。
 問題意識を持ち、ジレンマを感じながら少しずつ周りに働きかけていく人がいてはじめて、その組織は少しずつ揺らいでゆき、その揺らぎが増幅して大きくなった時に変容する可能性が生まれる。ものごとが真に変わっていくのはそういう風であり、改革プランによる強引な変化は、必ず、大きな矛盾を作り出してしまうだろう。
 里山文化というのは、日本人が長い時間をかけて育んできた端境の智慧であり、そこの自然は、野生の自然よりも豊かな生態系を誇っていると今森さんが言っていた。昆虫や動物や植物の種類も多様で、見事な棲み分けがなされているのだ。
 里山は、字のごとく里と山の端境であり、そこに暮らす人は、自然との付き合い方を心得ており、だから、自然に対して、”手入れ”という働きかけができる。異なるものに対する配慮や思いやりが、バランスのとれたものを生み出し、そこにあるいのちを生かすためにどうすべきか丁寧に考えて行動することができる。
 どちらか一方に自分の軸足を固定してしまうと、自分の立場を守るために、
自分の殻に閉じこもってしまったり、自分と見解の違う相手を激しく攻撃するばかりで、少しずつ間を詰めていくための対話を安易に放棄しがちだ。
 何よりも、自分のことは差し置いて相手を生かすという発想はなく、自分のために相手を利用するという発想に陥りやすく、思いやりや配慮がなくなる。
 人間から配慮や思いやりをとってしまうと、とてつもなく乱暴な、程度を弁えない、とんでもないことをしでかしてしまう。多くの事例を通じて、人間はそのことを知っている筈だ。
 ビジネスも政治も表現も学問も、もう一度そのことを見つめ直す時なのだろう。その為には、原理主義者のように一つのことを絶対視して凝り固まってしまうのではなく、異なるものが見えるポジションで、色々なことを検証し直していくということが必要なのだろう。
 何事も、「これが絶対に正しい」と言えるものはない。だからといって、「正しいものは何もない」というわけでもない。
 人間が自分の頭の中にある情報だけで物事を決めようとすると、自分の中にある限られた情報の整理の仕方で、白黒の判断をせざるを得ない。
 どれだけコンピューターや人工知能が発達し,情報量が飛躍的に増えて情報整理が飛躍的に速くなったとしても、”限られた情報”であることには違いない。
 今森さんは、里山というものを学問的に定義付けて伝えることで完全に理解してもらうことは非常に難しいと言う。それは、時とともに、時代とともに、揺れ動き続けているからだ。
 だから今森さんは定義ではなくイメージの力で”里山”を伝えようとしてきた。そして、そのイメージを更新し続けている。広く浅くではなく、深く重層的に。
 石田さんは、人間を楽にさせる技術ではなく、人間をワクワク,ドキドキさせるものは何かというポイントから技術を考え、そうすると、完成したものではなく、ある程度、不完全であることが大事だと弁えて、そこから、暮らしをリ・デザインしていくことを提唱している。
 お二人とも、今ここにある情報に居付くのではなく、今ここにない情報にアクセスしていく回路をエンドレスに保ち続けることの大切さを知っている。
 本来、好奇心というものは、そのように、”今ここ”と、”今ここにないもの”との間の不安定さの中に芽生える力であり、理性を身につけ計算高くなった人間を、”横暴”から”謙虚”に転換させる力も、そのように狭間で揺れ動き続ける好奇心の力なのだろうと思う。


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