第881回 間(あはひ)の妙を伝える写真

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(撮影 鬼海弘雄
 これから出る風の旅人の最新号「いのちの文(あや)」の中で、鬼海弘雄さんの写真「東京模様」を紹介します。現在、鬼海さんのこのシリーズの写真集を制作中ですが、風の旅人の誌面ではその一部を見せます。

 鬼海弘雄さんの写真を見ると、”間(あはひ)”の世界だなあといつも思います。

 わかるようでわからないところがある。でもわかりそうな気がする。写真を通して、自分が生きている現実とは別の時間の中に入る。それでいて、こちら側の現実に踏みとどまる力がある。鬼海さんの写真は、そういうものです。
 もともと写真というのは、世界との媒介です。
 媒介というのは、こちらとあちらをむすぶものであり、同時に、こちらとあちらを分ける境界でもあります。つまり、あはひ(間)に存在するもの。
 だから、写真家の能力というのは、そういう媒介者としての能力であり、魂が、こちらの現実に居付きすぎてもダメだし、あちらに完全に行ってしまってもダメです。
 そのギリギリの境で踏みとどまらなければなりません。
 ”あちら”というのは、なにも幽霊のいるところとは限りません。人間の理性では簡単に解明されない世界のことであり、”自然”とか”宇宙”の摂理もそうです。どんなに科学が発展しても、生命それ自体を作り出す事や、宇宙の涯の向こうの解明はできていないのですから、それらも、人間にとって、あちらです。
 もっと身近なところでは、自分の身体すら自分の意識を超えたところで動いていますので、自分と直に接しているところなのに、あちらです。
 現実社会の中の仕組みに縛られて生きていると、そこで出会う多くの物事は、自分がよく知っているこちら側の理屈で意味付けられて処理されてしまいがちです。
 なのに、敢えて表現行為によって、こちらの側の権威におもねいたり、こちら側の仕組みに寄り添ったり、こちら側の現実に反発するポーズをファッションにしたりするものも多くあります。こちら側の現実に媚びた方が、出世もしやすいし、人気も出やすいし、うまくいけばお金儲けもできるからです。
 けっきょく、こちらの現実の中での表現の価値は、こちらの現実の中での勝ち負けにすぎず、あちら側の現実からすれば、どうでもいいものかもしれません。
 ちなみに、50年後の世界も、こちら側の現実から予測できない世界なので、あちら側の現実です。
 自分が生きていない未来のことはどうでもいいと開き直って、今この瞬間のこちら側の理屈だけが大事だと言い切ることができればいいのですが、今この瞬間の生にしても、こちら側の計画どおりにはいかないことも多いのです。
 そして、もし、こちら側の計画通りにいかないことが無価値なことだと決めつけられてしまうと、多くの人間にとって救いようのない人生となってしまいます。
 こちら側の計画通りでないけれど、面白いことはいっぱいある。むしろ、こちら側の計画通りのものは、見え透いていてつまらないし、退屈だ。そういう思いは、誰もが少しは持っている筈で、その思いというのは、自分ではわかっていないけれど、とても重要な思いかもしれません。
 鬼海さんは、多くの人と同じように、こちら側の現実でうまくいかないことをたくさん知っていて、その不満を持っており、いつもボヤいています。
 しかし、多くの人と少し違うのは、こちら側の現実の不満を、こちら側の現実の答えで解消しようとしないことです。こちら側の現実の答えというのは、たとえば、人に評価されるとか、賞をとるとか、お金を儲けるとか。こちら側の現実において欠けたものを、こちら側の現実の断片で埋めようとしても、埋まらないことを悟っているのでしょう。
 だから鬼海さんは、こちら側の現実の、目的地へと最短距離で行ける整備された道など決して通らず、敢えて脇にそれていき、迷路へと入っていきます。
 こちら側の現実から脇へと逸れてしまうと、自分を権威付けるようなものは何もないわけですから無力なものです。しかし、そのことによって特別な視点を獲得します。
 まず、こちら側の現実を、脇から見られるということです。
 そして、もう一つ、このことがとても大事なことですが、こちら側の現実が生きるうえで不要だとみなしてしまっているものを、再確認する眼差しを得ます。
 たとえば妙なもの、つまり説明不可能な気配というようなものは、こちら側の現実では何の役に立つかわからないので、大事にされません。
 しかし、人間付き合いなどにおいても、妙に気が合うとか、なんでもない場所なのに妙に落ち着く場所というものがあり、そういうものは、理由が不明確で、こちら側の現実の中で評価付けができないものだけど、けっこう大事なのです。
 それは誰もが生理的(身体的)に感じている真理です。
 頭では理解できていないけれど、頭にとって”あちら側”の存在である身体が、何かしら原因があって、それを必要としているということでしょう。
 こちら側の計画や計算だけで人と付き合ったりカレンダーのスケジュールを埋めていくと、誰しも苦しくなるのではないでしょうか。
 私たちはきっと、こちら側だけでなく、あちら側も必要なのです。理由なんかわからなくてもいい。あちら側の何かを少しでも感じさせてくれるものが必要なのです。
 そして、それを具体的に感じさせてくれる人は、こちら側の現実から脇に外れていき、あちら側の現実の妙なるものに注意を払っている人です。
 その人がいなけれど、多くの人にとって、あちら側の現実は不過視のままです。
 鬼海さんの写真を見る人は、日常とはまったく違う時間の中に身を置く事になります。
 そして、こちら側の現実の意義や意味や価値観が揃っていなくても、違う形での整え方があるということを何となく感じられます。無意識のうちに囚われてしまっている「こちら側の現実」という枠組みから自由になり、その束縛から解放されるわけです。
 こちら側の現実において、壁の前で行き詰まった時には、その壁を乗りこえようと熱くなることが多いのですが、ふと冷静になって、行き先を変える選択肢もあるのではないかと考える間(あはひ)ができます。
 この緩みという間(あはひ)は、とても大事で、建築における建材でも、杓子定規で作ると震動などを吸収できず、衝撃をモロに受けて、すぐにガタガタになります。
 行き先を変えることもありだという間(あはひ)は、視野狭窄に陥っている自分を解放するわけで、自分の先入観や固定観念を棄てて世界と向き合うきっかけになります。
 そして、固定観念という決まった答えを捨てることは、迷路に入ることです。
 迷路に入ることに不安を覚える人もいますが、馴れてしまえば意外と楽しいもので、それは何故かというと、迷うことが無ければ気付けなかったことにも気付くわけで、その瞬間、世界がぐんと広がることが体感できるからでしょう。
 迷路の中で様々なことに気づくこと。それは、世界について、人生について、悟ること。その悟りとは、こちら側の現実にあてはまる答えを得ることではなく、こちら側の現実にあてはまらない妙なことと付き合っていくことが、生きる妙(面白み)だと知ることではないでしょうか。
 鬼海さんの写真を見る時の妙な気持ちよさは、たぶんそのあたりに原因があるのではと思ったりします。


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