第880回 視る力と、視られる写真

P027_659325a(撮影・大石芳野


 写真家の大石芳野さんは、3.11の震災後、とくに福島の地を丁寧に取材し続けている。丁寧に、というのは、1人ひとりの心の内側を写真に焼き付けるために、1人ひとりとの距離の取り方が、とても丁寧なのだ。
 大石さんは小柄で繊細そうな女性なのに、カンボジアとかコソボとかの戦地や、パプアニューギニアのジャングルに長く滞在し続けて、丁寧に撮影をし続けてきた。しかも、一眼レフの望遠ズームレンズで遠くから獲物を狙うようにバシャバシャとシャッターを切るという取材方法ではなく、ズームのきかないレンジファインダー方式のライカで、丁寧に対象に近づき、丁寧にピントを合わせて撮るスタイルを続けてきた。だから大石さんの戦地写真は、多くの報道写真とはどこか違う。彼女の写真は、視るというより、対象に視られるような感覚になる。それは、大石さん自身が、その場所の人々を自分の都合のいいように見て切り取っていないからだ。おそらく、大石さんは、絵になる風景を探しまわるというタイプの写真家ではない。その場所に自分という異物を挿入することの心苦しさのようなものを感じながら、つまり、その地の人々に、もしかしたら何の力にもなれない自分自身が冷ややかに視られているかもしれないという感覚のなかで、だからこそ丁寧に対象と対話をはかり、その対話の中でお互いの視線を交錯させ声にはなりにくい声を通い合わせるようにシャッターを切っているという感じがする。
 写真のことをあれこれ分析するつもりはないが、大石さんと向き合って対話をしている時など、どんなに多くの賞を受賞して地位を築こうとも決して驕ることのない、控えめで丁寧な、相手を尊重し気を行き届かせた佇まいに接していると、やはり写真というものは、人としての姿勢が現れるものだと妙に納得してしまうのだ。
 シャッターを切りさえすれば写真は写るのに、なぜ人によって違うものになるのか。とても不思議だけど、視る力というものは、やはり、日頃の人や物事との向き合い方の積み重ねとかなり関係する力なのだろうと思う。
 だから、3.11の東北大震災の後、テレビや雑誌や新聞などで福島のビジュアルが洪水のように伝えられてきたが、それらの視角フレームだけでわかったつもりになってしまうのではなく、大石さんのような眼差しの中に大切な何かがあるということを感じてもらうために、大石さんの福島の写真を、私なりの受けとめ方で、風の旅人の復刊第5号で編集させてもらった。
 敢えて、「私なりの受けとめ方」と言うのは、大石さんも、撮影する段階においてそうだろうが、純粋に客観性というものは存在せず、表現行為は、どうしても当人ならではの癖が反映されてしまうものだ。そういうことを謙虚に自覚して、どれだけ対象を損なわないようにできるかが大事であり、それが、「私なりの受けとめ方」なのだ。
 撮る方も撮られる方も、ぐっと何かを抑制して、こらえているような気配が漂う子供達の写真。その内側からもれ出るように、「将来の健康が気にならないことはないけれど、心配しないことにしている。でも、心配。」といった声が、静かであるだけ深く感じられ、心に食い込んできて、とても苦しくなる。


 風の旅人 復刊第5号 いのちの文(あや)→ http://www.kazetabi.jp/

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