第920回 小栗康平さんの新作映画と、かたじけなさ

Photo 写真/松井康一郎

 10月1日発行まであと僅かとなった風の旅人 復刊第6号(第50号)のロングインタビューは、映画監督の小栗康平さん。今回は10ページにわたる大特集。11月14日より、小栗監督の10年ぶりになる新作映画『FOUJITA』が、全国ロードショーとなる。http://foujita.info/  

 『泥の河』や、カンヌグランプリを受賞した『死の棘』などの作品で知られる小栗監督は、極めて寡作な映画監督で、次の『FOUJITA』で6作目です。小栗さんは、お金のために映画を作らないし、自分の意に反したものは絶対に作りません。そして、同じことは二度やりません。一回ずつがゼロからのチャレンジです。こんな映画監督は、世界には存在しますが、日本にはいないでしょう。
 私は、まもなく54歳になり、これまでの人生で、文学、音楽、絵画、映画など、いろいろな方面の表現者の作品に触れてきましたが、一番長いファン歴は、小栗監督です。
 20歳の時、大学を中退して2年間ほど諸国放浪をしていた時、パリで、小栗監督の『泥の河』を見ました。その時は、しばらく日本を離れていたためか、日本の素直な情感世界に感動しました。映画を見ながら涙を流しているフランス人も多くいました。それは小栗映画を好きになるきっかけでしたが、小栗監督に引き込まれるようになったのは第2作目の『伽耶子のために』で、前作よりも自分の中に複雑な感情が芽生え、その時から次の作品が待ち遠しくてしかたなくなりました。
 私達は、ふつう、映画を見ながら色々なことを自分の頭の中で考えていますが、『伽耶子のために』は、それがいっそう深くなるような体験でした。見ているものによって何か答えを確認するのではなく、見ることによって問いが深まるわけです。だから、すっきりとしないものが残りますが、そうした映像体験の方が、ぐっと胸に迫り、後々まで残り続けるのです。なぜだかわかりませんが、映像の力というのはそういうものであると直観し、そのことが、私が『風の旅人』というグラフィック誌を作り続けるうえで、とても大事な基礎になっています。
 見るということは考えることであり、見ようとする意思が、見えないものを見る力だと。
 このように、小栗さんとの出会いが、その後の私の人生に大きな影響を与えています。30代の時、6年ほど作家の日野啓三さんのところに通い詰めて、小説の話だけでなく、宇宙のこと、歴史のこと、芸術のこと、人類のことなどを夜遅くまで語り明かしました。その日野さんが癌で亡くなった時、何かしら運命的な力が働いて、それまで出版とか編集に縁のなかった私が、風の旅人を創刊しました。風の旅人のテーマや構成などは、間違いなく日野さんの影響を受けています。そして、風の旅人の映像の視点については、小栗さんの影響が自分の中に流れているのです。
 今回の小栗さんのインタビューは、新作映画の『FOUJITA』のことについてだけでなく、『泥の河』から『FOUJITA』に至るまでの社会との関係や、映像に対する問題意識が、かなり織り込まれています。
 第50号という節目で、小栗さんをインタビューできたのは運命的だという気がします。そして、2012年に復刊してから、ロングインタビューを続けてきて、作家の宮内勝典さん、丸山健二さん、石牟礼道子さん、染織家の志村ふくみさん、哲学者の鷲田清一さんの話をうかがってきましたが、日野さんとともに、風の旅人にとって、そして私にとって大切な小栗康平さんとの話を誌面で紹介できるわけです。
 このインタビューを仕上げた後、これが自分にとって一つの節目であるという気持ちが、突然、わき上がってきました。
 こういう形でのチャレンジは、そろそろ、これで終わりにしてもいいのではないかという気持ちです。
 出版不況と言われるなか、一人で編集制作を行い、一人で販売し、一人で入金管理をするという方法でしか成り立たない広告抜きの雑誌運営に、疲れたということもあるでしょう。
 頑なまでに同じサイズで、同じ編集方針で、50号まで続けてきたので、もういいじゃないかという心の呟きもあります。
 50号の巻末にある次号の告知で、「もののあはれ」というテーマを掲げています。「もののあはれ」を誌面化したいという意思は残っていますので、これは何かしらの形で完成させたいとは思います。
 小栗さんのように10年かけて熟成させるということではありませんが、一つ作れば息つく暇もなく次のことという雑誌運営の慌ただしさから少し離れて自分や世界を振り返る目がないと、「もののあはれ」にはならないですね。
 風の旅人を、ずらりと50冊並べて、何をしみじみと思うのか。
 我々の生きている世界、自然、生物、人間は、どんなに嘆かわしいことが続こうとも、それでも美しいものがある。
 小栗さんの新作映画の中で、藤田嗣治は、歴史に翻弄され、栄光の日々の最後には戦争協力者という汚名を着せられて日本を離れてフランスに行き、小さな教会のフレスコ画を描ききって死んでいきますが、人間の眼ではなく、人間を超えた何ものかの眼を自分の中に感じることで、地上の出来事を全て、大いなる課程として受け止められるような気がします。
 全ては課程。その道がどこにつながっているか、限られた命しか持たない自分は、知らなくていい。
 西行法師は、伊勢神宮を訪れた時、「なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」という歌を詠みましたが、この歌は、もののあはれの本質をよく表していると私は思います。
 みずからの存在を、”かたじけない”と感じる瞬間というのは、自分がそこに存在していることの申し訳なさと、有りがたさの両方が混ざり合っています。そういう心に深く至っている人間は、古今東西変わらず、とても美しい。
 小栗康平さんは、世界の大監督なのに、決して威張り散らしたりしません。今回、撮影現場にも何度か足を運びましたが、丁寧で、親切で、情が細やかで、謙虚です。そして、自分が色々な人に支えられているという感謝の心が伝わってきます。
 小栗さんと会っていると、言葉にこそしませんが、”かたじけなさ”という佇まいや、表情が、いつもその存在から漂ってきます。
 そして、いつの時代も、そういう人は、生きているあいだは世渡りが下手で、死んだ後に、多くの人々の心の中に生き続けます。
 

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