第882回 取り替えのきかない”いのち”

 

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(撮影/有元伸也)

 有元伸也さんが撮ったチベットの写真は、報道写真や観光写真のように、「チベット」の有様を客観的に情報伝達するものではありません。

 彼は、チベットの人々とその環境の中に、取り替えのきかないものを感じとり、それを写真という媒介を通じて素直に表しています。
 取り替えのきかないものは固有のものだけれど、誰もが心の芯で感じとることのできる普遍のものでもあります。匠が使い込んだ道具や、手入れの行き届いた庭や、歴史が積み重なった町並みにも同じものを感じます。
 人間は、そういう取り替えのきかないものを見たり触れたりすると、尊いものを感じ、身が引き締まる厳かなものを感じます。大切にしなければならないものの存在を知り、自分の在り方を振り返って、リセットする気持ちが生じるのです。
 日々のニュースを見ていると、人間は、この地上で悪業の限りを尽くしているように思えますが、そういう状況でも人間性への信頼を回復する道が僅かでも残っているとするならば、それは、人間は本質的に大事なものを悟りさえすれば、自分の身を振り返って悔い改める可能性があることでしょう。
 聴覚と視力を失っていたヘレンケラーが、サリバン先生の導きで、掌の上で水の触感を頼りに水という言葉を教わり、”ことば”の本質を掴んだ時、自分の荒れた感情によって引きちぎられた人形に対する後悔と悲しみの感情が一挙に押し寄せてきて涙した有名な話がありますが、そうした転換は人間誰でも起こりうることだと思います。
 ヘレンケラーは、”ことば”によって覚醒したということになっていますが、”ことば”というのは、私たちが、読み書きで使っているものだけとは限らないでしょう。ヘレンケラー自身、目も見えず、耳も聴こえないわけですから、私たちが使っている書き言葉や話し言葉を、私たちが認識しているように認識しているかどうかわかりません。
 目も見えず耳も聴こえないヘレンケラーが、水の触感を通じて一挙にわかった世界の真実というのは何だったのでしょうか。そしてなぜ、それがわかることで悲しみと悔い改める感情に支配されたのでしょうか。
 想像するしかありませんが、それまでのヘレンケラーは、世界(他者)の関係性が識別できていなかったのではないでしょうか。もちろん、両親やサリバン先生がいることはわかっていたでしょう。しかし、ものごとの関係性が識別できていないので、自分の行為が相手に何らかの作用をもたらしていることがわからなかったのではないかと思います。
 私は、自分の息子が幼い時の一つの光景を鮮明に覚えています。息子は、どんな子供でもそうであるように、自分の不快とか不安で泣いたり騒いでいたりしていましたが、ある時、親の手伝いをしようとしたのか、牛乳瓶を手に持って運ぼうとして床に落としてしまいました。そして、床に砕け散ったガラスと真っ白な牛乳を見て、息子は、ものすごい声で泣き続けました。親に叱られたわけではないのに、自分が何か取り返しのつかないことをしてしまったことを、その時、知ったのでしょう。息子の感情を支配していたものは、自分の不快とか不安ではなく、心の痛みだったのだろうと想像します。
 自分が存在し、自分が動き、自分が何かに関わることが、必然的に何かに働きかけていく原因となっていることの認識。”ことば”というのは、もともとそういう人間らしい認識力と関わっているものではないかと思うのです。
 お母さんに対して、モゴモゴと何かサインを送ると、お母さんは何かを返してくれる。コミュニケーションというのは、そうした応答によって育まれていく。コミュニケーションというのは、そうした応答を通して自分と世界の関係性を編み込んでいくものだと思います。
 目も見えて耳も聴こえれば、たとえば自分が少し身体を動かすことで世界の見え方が変わったり、顔の向きを変えることで聴こえ方が変わるなど、自分と世界の相互応答性は把握しやすい。子供は、そのように自分の五感を通じて世界(他者)とのあいだで変動する関係性に対する認識を獲得していくことでしょう。世界には、どこから見ても同じに見えるというものはないのです。自分の変化(動き方)が、世界を変化させていくという感覚、自分の関わり方が相手に影響を与えるという感覚が育まれることが、人間らしい思いやりにつながっていると思います。
 ヘレンケラーの場合、ハンデがあることで、その気づきが遅くなった。しかし、気づくまで何もわからなかったわけではなく、自分では整理できない世界(他者)の感覚が、自分の中に溜まりに溜まっていた可能性があります。その混乱が、心の乱れや態度の粗暴さにつながっていたとも考えられるでしょう。だから、何もかもが一挙にわかった瞬間、堰を切ったように、感情が溢れた。
 改心によって、もっとも罪深いものが、もっとも敬虔になるという人間の真理が、この話に含まれているように思われます。
 現在、私たちが使っている書き言葉や話し言葉には、そうした力がなくなっています。言葉が知識や情報の伝達の為に使われていますが、そうした言葉の使い方は、自分と世界(他者)との応答がなく、関係を固定してしまいます。学校の授業がつまらなくなるのも当然でしょう。
 世界の出来事をあたかも動かし難い事実のように示され、その事実を確実に覚えているかどうかが点数で計られ、知識を使って世界に対してどう働きかけるかが大事なのに、知っているというだけで偉い人のように奉られてしまう。挙げ句の果てに、物事をたくさん知ることは、人や物に対して配慮できる謙虚な心の土壌になる筈なのに、その逆に、傲慢さの土壌になってしまう。
 しかも、そのシステムの中核にあるのが言葉で、システムを強化するために言葉の論理による正当化が行なわれています。言葉の論理というのは、たとえば今私がこのように書いているように、いろいろと混沌とした世界の中から物事を分離して整理して固定して決めつけていく力があるので、使い方によっては、物事をねじ曲げたり、人を貶めたり傷つけるうえで、他のどんな表現方法よりも強い力を持ちます。
 こうした言葉の横暴さに立ち向かえる”ことば”を持たなければ、ヘレンケラーのような気づきを得られず、人間は改心できないでしょう。 
 そしてもし写真が、現在の横暴な言葉の使われ方に追随するしか能のないものであれば、世界と人間の関係を、さらに硬直したもの、もしくは無関係であるかのようにする働きを、言葉以上に発揮してしまうでしょう。
 写真は、言葉が決めつけた善悪や、豊かさの定義や、立派さの基準を映像力で強化することができます。また、大事なことから目を逸らさせるために、世界(他者)の事実と向き合うことなく自己完結的に、自分がかってに作り上げた心象風景に浸れるツールにもなります。また、言葉よりも写真の方が、きれいとか汚いとか、好き嫌いの分別が直観的に行なわれやすいため、至るところで人気コンテストのような催しや、客寄せの展示会が行なわれ、消費社会と相性の良い集客イベントになりやすい性質があります。それゆえ、大量生産、大量消費社会の中のポジション取りの競争が、写真表現に携わる者にとって大事なことになってしまいます。それは、写真に限らず、どんな表現活動においても同じですが、とりわけ写真は、広告表現などで重宝されているように、時代社会に媚びやすく、利用されやすい性質を持っていると言えるのではないでしょうか。
 それでも、写真には、言語が固定化しがちな世界認識を覆す力があると私は信じています。
 たとえば、「肩書きが立派でお金をたくさん持っていることが幸福」という価値観に対して、そうとはいえないかもしれないということを言葉で伝えるためには、対立的な言葉を持ってくるだけだと議論になるだけなので、じんわりと心の芯で感じてもらえるよう練りに練った小説のような言語世界を構築する必要があるかもしれません。
 しかし、写真は、ヘレンケラーが掌で感じとったように、世界のリアリティを、直接的に感じさせる力があります。人間は、自分の目で見ていないものよりも、自分の目で直接見たものを事実として信じるところがあるからです。
 目で見たものを事実として感じながら、その感覚に言葉がついてこないので、しばらくしたらその感覚を忘れてしまうことが多くありますが、完全に忘れ去ったわけではなく、ヘレンケラーが言葉と出会う前に自分の中にザワザワとしたものを溜め込んでいたように、新たな認識につながる芯を自分の中に育てている可能性があるでしょう。
 逆に言えば、人間や物の尊厳を蔑ろにしたり、世界(他者)との関係を自己中心的に閉ざしていく写真をたくさん見続けると、世界と自分の関係を歪めてしまう認識が、知らず知らず形成されていくということです。
 大衆消費社会というのは、自分を大事に可愛がることが自分の幸福につながると思い込むように誘導された社会です。自分の幸福のためには、自分を傷つけることよりも他人を傷つけることが優先されたりします。しかし、ヘレンケラーは、自分以外のものを傷つければ傷つけるほど自分も傷つき荒んでいきました。
 世界の中から自分というものを分断して、分断された自分を可愛がろうとすればするほど、自分は世界から遠ざかっていき、だからこそ漠然とした不安が膨らんでいきます。社会の仕組みにも原因があるし、自分の世界(他者)に対する関係の持ち方にも原因があるのです。
 有元さんが撮ったチベットの人達の表情には、大量消費社会の中で歯車の一つとして生きる人間に特有の漠然とした不安が感じられません。
 どんなに過酷な環境でも、人としての尊厳を保っている彼らは、周りから丁寧に扱われることで尊厳を維持しているのではなく、周りの世界(他者)に丁寧に対応することで、人としての尊厳を高めているように感じられます。
 人間は、関係する生物であり、関係の深さがいのちを輝かせる動力源であり、その関係性の対象は、人とは限らず、森羅万象の隅々まで及び、無窮です。
 むしろ、人という対象を超えて、人の背後に連綿と連なる世界とのつながりを実感することが、自らが今ここに存在することの確かさと、意義深さの感覚につながり、それが尊厳の気配となって現れ出るのではないでしょうか。
 次号の風の旅人(いのちの文)の巻頭に、A.H.ホワイトヘッドの次の言葉を掲げています。
 「一個の有機体は、それがそれ自身であるために、全宇宙を必要とする。」
 すなわち、「人間は、人間として存在するために、全宇宙との関係性を認識する必要がある。」ということではないでしょうか。
 自分を大事にするというのは、自分の中に流れている”とりかえのきかないいのち”を自覚することでしょう。それは、ヘレンケラーが、掌で水と自分の関係性を識別して、水は水の、自分は自分の、そして人形は人形のかけがえのなさに気づいた瞬間に悟った感覚だと思います。
 チベットの人々の写真を見て、彼らの存在のかけがえのなさに気づく人は、きっと自分の存在のかけがえのなさに気づくことができるのだろうと思います。

(数日前、川崎の中学一年生が無惨な殺され方をしました。1人の少年のいのちが、あまりにもないがしろにされたことに対して、その苦しさや耐え難さに対して、心の隅々まで、やりきれないものを感じます。いのちの問題は、人ごとではなく、自分自身の問題として、社会の中で悲しい事件が起こるたびに、突きつけられるのです。)

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