時と揺

  風の旅人  第34号(10/1発行)。テーマは、「時と揺」。

 新しい段階に発展していく時や、新しい事態に備えたりする時、自然は微妙に揺らいでいる。状況に応じて必要なものを選び取っていく自由を確保するためには、揺れ幅が必要になるのだろう。微妙な揺らぎによって全体がうまく調整され、結果的に強い力となるのは、自然の摂理のようだ。昆虫の触角は常に揺れ動いているし、力強く空をきる鳥の翼は、一枚ずつの羽が微妙に揺らいでいる。子供を固定した価値観に縛り付けてしまうと激しく苛立つのは、もしかしたら生物の本能によって、生きていくうえで大切なものが損なわれる危機を察知するのかもしれない。

 今月号の巻頭に紹介している森永純さんの写真は、人間の側から”汚く、死んだ世界”と判断される「ドブ河」でも、深くコミットしていくうちに、こちらの都合で決めた分別の境界が揺らぎ出す瞬間がとらえられている。私たちは、物事(他者)を自分に都合良く解釈し、その解釈に添って整理することが多いのだが、その程度の行為を、”見る”と言っている。森永さんは、じっと対象を観察していると、認識が揺らぎ、現実と幻の境界がわからなくなることが時々あると言う。森永さんにとって”見る”というのは、それまで見えていなかった何ものかが見えてくる危うい状態を指すのだろう。

 中野正貴さんは、ボートなどで川を漂いながら、川面に写る光景を撮影した。今月号で紹介している写真は、私たちがふだん地上から見る光景と逆さになっている。私たちは、地上こそが実体であり川に写った像は幻影だという意識が働いているから、川に写った光景を横目に”鑑賞”することがあっても、本気で向き合っていない。美術館などで行う絵画鑑賞も同じスタンスが多い。本気で関わる必要がないという線引きを行うと、自分の価値観に安住できて揺らぐこともないが、驚きもないし、”美”もない。”美”というのは、自分の価値観が強く揺さぶられる体験を伴うが、そうした状況に置かれると、有名無名の分別は当然として、上下左右も、実体か幻影という分別も消えてしまう。

 ジョナス・ベンディクセンさんのトランスドニエステル共和国の写真は、最近のニュースで伝えられたロシアとグルジアの争いと状況が似ている。ソ連解体後、分離独立した国家のなかで、過去への揺り戻しを願う人々に、大国の利害が絡んで複雑な展開が生じている。中に入って”見えてくる”のは、物事(他者)の切実さであり、外にいて新聞やテレビから得る客観的情報には、物事(他者)と距離を置いた記号的説明や数字ばかりが並ぶ。

 切実なものは、良悪の分別に関係なく美しい。計算どおりにいかない不条理な現実のなかで懸命に足掻き、傷つき、それでも夢見るのは、古今東西変わらぬ人間の普遍的な生き様なのだろう。

 井津建郎さんの明晰なプラチナ写真を見た時、私は、切実なる人間の心の中を覗くような気持ちになった。そこに写し出されているのは地上の現実であるが、人間が切実に求め、心のなかで慈しみ続けている永遠の形象でもある。

 「観光写真」や「世界遺産シリーズ」等の写真からはまったく感じられない人間の崇高な思いが、井津さんの写真から伝わってくる。

 古代から、意識を持つ人間は世界の不条理を知り、それを乗り越えるために必死だった。変動著しい世界に翻弄されながらも、その中に永遠を見出し、その永遠と自分をつなげることで前向きに生きる力を得ようとする人間の切実さから宗教や芸術が生まれた。井津さんがとらえた一つ一つの遺跡や人間の祈りの姿を見れば明らかだが、人間は、自らの生きる必然性を得るために、哀しいまでの努力をする。その努力の方向が、地位、名声、金銭などに向かう者もいるが、それら記号的価値の儚さを知る人間は、古代も現代も、永遠を求めて彷徨い続ける。

 奥山淳志さんは、第31号で紹介した弁造さんや、今月号の市村さんのように、自らの揺れ動く心に正直に生きている人と向き合うことで、自分自身を見つめ続けている。世の中の価値観に当てはめて自分を偽って生きていく器用さを持ち合わせていない弁造さんや市村さんの魂の陰影に、奥山さんは心惹かれ、そこに孤高の美を見出している。奥山さんは、標準化された社会の尺度ではなく、揺らぎがちな心を軸にして物事(他者)と向き合い、その自分ならでは感覚を形象として表現し、不確かな世界を生きる力にしようとしている。

 奥山さんは、岩手に移住して暮らしているが、今月号で「切支丹の窓」を紹介した松尾順造さんも、8年前に都会を離れて長崎に移住し、長崎や五島の島々にある小さな教会堂の素朴なステンドグラスを撮り続けている。それらは、長い迫害を耐えた隠れキリシタンの人々が、極貧のなかレンガを一つ一つ組み上げて建てていった教会堂のなかの「神に捧げる花」だと松尾さんは言う。ステンドグラスに使う色ガラスは高価なものではなく、手作りなので不純物が多く混ざっている。不純物が高熱で燃え、そのあとが気泡となって残っているのが、なんとも愛おしい。永遠の命を夢見ながら、世間では邪魔者のように扱われた人々の揺らぐ思いが、ステンドグラスの中に凝縮され、永遠の光を受けて、美しく輝いている。

 美しいとか汚いとか、正しいとか間違っているなど現代社会の様々な思考分別や知識は、永遠普遍の価値を示すものではなく、一つの時代における便宜上の線引きにすぎない。

 それはそれで人間社会を維持していくうえで必要な目安であるけれども、その枠組みの中で自分の心の揺れを完全に制圧して生きることが自然の理に適っているとは思えない。

 巨大メディアが自己保身のために組み立てる世界のなかでは、相変わらず、”今風”とか”最新”とか”有名”などの切り口でステレオタイプが繰り返されているが、私たち一人一人は、自分の体験を通して言うに言われぬ感覚を記憶のなかに蓄え、魂の陰影を深め、そこを揺籃として新しい認識を育てている。その認識が、少しずつ、確実に、自分の未来につながっている。