高熱が出て意識が転位した(続)

  私たちは、目先のことしか見ていないと、目にしている部分は見えるけれど、まわりにワケのわからないものもたくさんあるので、世界が混沌のようにしか感じられない。そして、常に、それらの動きに心が乱される。
 しかし、もう少し長いタイムスケールで見ると、それはただの混沌ではなく、全体として異なる位相に転じようとする激しいエネルギー状態であることがわかる。
 やかんで湯を沸かす時、やかんに近づき、その周辺だけ見ると、白い蒸気が吹き出す混沌状態だが、少し身を引いて部屋全体を見渡すと、それは液体から気体に転位しようとする場における凝縮したエネルギー状態であり、その先に、気体になって広がっていく安定した状態があることが見てとれる。
 液体は液体として安定し、気体は気体とした安定するが、液体から気体へと水の位相が変わる時、(人間から見ると)乱れているように感じられる状態がある。 
  液体や気体の中だけを覗き込んだり、その節目の混沌状態の中だけを覗き込んでも、水全体はわからず、液体状態も気体状態も混沌状態も含めた「丸ごと全体」があるのだということを理屈抜きに感じ取っていなければ、水を見ているようで見ていないということになるのだろうと思う。

 「時」の見方、感じ方も、それと同じなのだと思う。
 そして、私は思うのだが、そもそも「神話」の存在意義は、そうした「時」というものの「丸ごと全体」を「丸ごと全体のまま」伝えていくところにあったのではないか。
 そういう仕組みを必要としたのは、人間というものが、液体の中だけ、気体の中だけの同じ位相にしか目がいかなくなる癖をもっており、それによって、生きていく上で、また共同体を整えていくうえ で、様々な支障が生まれてくるからではないか。

 現在の学問は、その癖が強くなっており、「神話」さえも、「神話」というカテゴリーに閉じ込めて丸ごと全体から分断してしまう。この癖が、現代の人間の生や共同体に支障を生んでいるなどと学問界のインテリは、夢にも思っていないだろう。自分好みの枠のなかしか見ず、他の全体に無関心であるかぎり、その傾向はどんどんと強まるだろう。 
 「時」というのは、また、それと同意とも言える「神話」というのは、分断などできず、丸ごと全体ではじめて、それは「時」であり、「神話」なのだ。そして、「神話」というのは、それを体感させる仕掛けなのだと思う。「神話」は、現在の学校教育レベルの歴史教材ではないし、また、現在の処世レベルの知識・教養の伝達手段ではないと思う。
 だから、神話の内容の一つ一つが史実であるかどうか、間違っているどうかなど議論することじたいが愚かなのだ。
 自分が生きている「今この瞬間」と、丸ごと全体の「時」は、あたかも、一枚の「葉」と「樹木全体」の関係のようなものであることを素直に体感すること。また、現在の私たちは、「部分」を足し合わせれば「全体」になるという発想に歪められているが、世界はそのように単純な構成要素でできておらず、そこだけを見ていれば混沌にしか見えない状態も多くあるがゆえに、その事実の前に敬虔になり、一枚の葉の葉脈のなかに樹木全体を厳粛に感じ取るスタンスが大事だということを教える仕掛けが、神話だったのではないか。  
 歴史のなかの、落ち着いた場と、こんがらがった場。どちらか一方だけが永遠に続くことは無い。たまたま、どちらか一方に近い所に置かれるものもあるし、そうでないものもある。
 「神話」の力は、そういう風に世界を眺められる眼差しを育てていくことにつながっていたのではないか。
 100年前に、エドワード・カーティスが撮影した北米先住民の「眼」を見ると、そのことを強く感じる。
 現在の人間の顔と一番違うのは、眼差しの遠さだ。永遠を見つめているような眼差しを、100年前の北米先住民は持っている。
 この100年で、私たちは手に入れたものと失ったものがあるとよく言われる。
 手に入れたものは、簡単に言ってしまうと、「便利」、「快適」「安心(医療とか)」にまとめられる程度のことで、失ったものについては、「静かな環境」だとか、「人情」だとか、なかには「道徳だ、倫理だ」と仰る偉い人もいる。
 私は、この100年で失われたものは、とりわけ、社会を支える成人の「眼差しの遠さ」であり、環境をはじめとする諸々のことは、そこからの派生にすぎないのだと思う。
 だから、「失ったものを取り戻せ」と大きな声を出す人の顔を見て、近くしか見えていないような感じだったら、あまり信用できないなあと思う。とりわけ、「環境問題」や「心の豊かな子供を育てる」ことの大切さなど社会で善良とされていることを説く人の場合、その人の眼差しが近すぎたら、ちょっと警戒する。
 私は、「自我」と、「眼差しの距離」の関係は大きいと思っている。眼差しが近づけば近づくほど、自我が強くなるのではないか。そして、「眼差しが近い」から、変化の後を追いかけるばかりになり、常に苛々と心が惑わされ続けるのではないか。

 そう思うところがあるがゆえに、眼差しの近い人の「環境のため」「社会のため」「子供のため」という「意見」は、全体のことを考えて言ってくれているのではなく、その人の「自我」のためだろうなと感じられてしまうのだ。 

 遠方まで見渡すような眼差しを人間が取り戻せないかぎり、根本的なことは変わらない。心の豊かな子供というのも簡単ではない。私の家の近くに公園が出来たけれど、子供が走り回るスペースを狭め、老人のために背中を伸ばす鉄製の器具とか、コンクリート製の足裏マッサージ器具など、けっこうお金がかかりそうなものを設置しているのだが、企画者は、それを「環境」とか「心身の豊かさ」のためと言うだろう。

 お年寄りのためだといって、票集めのために、お金を使う。そして、子供のためだといって、自由なスペースを奪い、近視眼的な視点でルールをつくり、管理する。発想がそういうものであるかぎり、子供たちの心は豊かにはならない。
 大人は、「つまらない部分的教養にすぎないもの」を「心の豊かさ」だと錯覚できるけれど、子供は、そういうことの欺瞞をすぐに嗅ぎ取る。
 「世界は丸ごと全体で世界」であり、「全体が全体の摂理にそって存在している」ということを何らかの方法で感じることで初めて見えてくることがある。

 それは、丸ごと全体というのは、部分に分割できるものではなく、正誤の分別ではかれるものでもなく、具体的な形に固定できるものでもなく、とてつもなく大きなエネルギーが流れる場であるということ。
 2年前、大竹伸朗さんが、現代美術館全体を使って「全景」の展覧会を行った時に、一つ一つの作品を分析することの滑稽さと、場全体のエネルギーが「作品」であると実感させられたけれど、ああした体験も、神話体験の一つだろう。

 そうしたリアリティを、大人から子供に語りかけていた時代が、「環境」も「子供の心」も健やかで豊かだった。ただそれだけのことではないか。
 わからなくてもいいから、全体を体感し続けること。目先のことにとらわれる眼差しを、遠方へと向けさせるためには、それしかないだろう。
 「エゴ」というのは、きっと「眼差しの近さ」と同意なのだ。だから、「眼差し」が近いままで、「エゴ」を取り除くことなどできやしない。取り除こうとすればするほど、眼差しが近くなるから、「エゴ」も強くなるだろう。
 人間が、眼差しを少しでも遠く、広くできれば、混沌に見えるものの見え方も変わるし、それを近視眼的な発想で力づくで抑え込んでも、同じものが異なる場所に現れるだけであることに気づく。
 もしも混沌に見える状態があるのなら、それがいったい何に転位しようとしているのか、眼を凝らし続けることが必要なのだろう。答が何もわからないからといって、また自分の専門外だからといって眼を向けないようにする自己保身の殻に閉じこもるのではなく、丸ごと全体に眼を向け何かを感じ取ろうとすること自体が大事なのだろう。
 世界との接し方においても、子供との接し方においても、そのことがとても大事なことであり、簡単ではないけれど、そのことを抜きにして、環境だ、子供だ、という以前の問題として、自分自身の再生もないような予感がする。

 第36号(2009年2/1発行)の「時と転」は、もちろんそれまで続いてきた号の積み重ねと一つになって、「目先の部分」にとらわれがちな現代から、「丸ごと全体」へと意識を転位させるもので、かつその一冊の中身が、私たちが生きる世界における「転」という状態を様々な角度からリアリティをもって感じさせるものを編んでいくことになるのだろうと思う。