「渋谷」(藤原新也著)のリアリティ

 藤原新也さんの新刊、渋谷を読む。

 この書物の全体と細部のいろいろなところに潜む凄さに感服した。

 各種の評論家が表層的に論じる現在の様々な現象の背後の、その内奥に降りていって概念ではなく感覚として掬い取ってくるスタンスは、藤原さんのこれまでの方法論と大きな変わりはないが、今的日本のシブヤ的なるものに対してそれを真摯に行って表現された作品によって、戦後の60年間が、概念ではなく痛切な感覚としてリアルに伝わってきた。 同時に、藤原新也という表現者の、「鮮度」に改めて驚かされた。

 言うに及ばないことだが、今回、私が感じた「鮮度」は、単に新しい風俗や現象がそこに客観的に示されているからではない。といって、その登場人物側からの主観的な吐露があるからでもない。

 今日の錯綜たる現実の様々な問題が、”眼差し”によって救われる可能性があるのではないかという微弱ながらも確かな祈りが、行間からヒシヒシと伝わってくるところに、私は、強烈な鮮度を感じたのだ。三年前の「何も願わない手を合わせる」の眼差しが、渋谷的なる日本に注がれることで、祈りが、胸を圧迫されるほどの広大無辺な領域に広がったと感じた。

 現代社会の様々な問題に対して、各種専門家の「論理」が示され、「論理」の体系ばかりが増殖するが、「論理」ではなく、”眼差し”の力によって、何かを変えうる可能性が、この本には示されている。

 そして、その眼差しは、過去と今の関係を変える力も帯びている。それは凄いことだが、もしも愛というものがあるとするならば、その形は、”眼差し”に顕現するのだろうと、感覚的にとてもわかるような気がした。

 さらに、眼差しの力を具現化するものとして、「写真」があることを藤原さんは伝える。このことも、とても重大なことだ。

 というのは、今日の世界から”眼差し”を奪った張本人の一つが、「間接的情報」を積極的に補完する役割ばかりを担う「写真」にあると私は思うからだ。広告写真は言うに及ばず、報道写真、風景写真、カタログ写真などは、時勢に応じた価値観をなぞり、強要し、それを見る者の思考的判断を弱めるという意味において、人々から”眼差し”を奪うことに荷担している。

 しかし、「写真」には、人間の眼差しを取り戻す力もある。というより、写真の発明後、写真が自らに付け加えてきた様々な意味を殺ぎ落としたところに、”眼差し”という、人間ならではの想念の方向性が残る。この世界に、それ自体で存在するものとして見つめ、見つめられる瞬間に生じる呼応に、”いのち”というものの厳粛なる秘密が隠されているのではないか、という啓示を与える写真がある。

 昔の恋人の写真、子供の写真、亡くなった友人の写真、写真が発明された150年前に撮られた写真などを現在見る時、そして、現在でも、ある種の特別な写真家が撮る写真に、そういう力を感じることがある。

 藤原さんは、「渋谷」で、傷ついた少女と撮影行為の関係を書いているが、私は、同じようなことを介護現場で経験する。

 認知症の方を取材し、こちらも一生懸命に撮影すると、症状が改善することがよくあるのだ。

 何十匹の犬や猫とともに、「捨てられて可愛そうでしょ」と言いながら道ばたにあった物を掻き集めて持ち帰り、その中に埋もれるように暮らし、二年間、風呂に入らず、電気もガスも止められ、床板をはがして燃やして暖をとり、食事はコンビニ弁当の賞味期限が切れたものをもらってきて犬や猫と一緒に食べていたという認知症の独居老人を取材したことがある。

 その人は、精神的に不安定だと聞いていたので取材に行く前は心配だったが、撮影の時は、始終にこやかで、心地よさそうだった。そして、その取材の後、ヘルパーさん達の介護努力もあったのだろうが、少しずつ認知症が恢復していったらしく、周りの人も驚いている。

 それ以外にも、常に誰かに物を取られているという物取られ不安症?という軽度の認知症の人や、人に不信感を持っていてとても怒りっぽいと聞いていた老人達が、撮影の時、ずっと穏やかだったり、写真が掲載された雑誌を見て、涙をボロボロ流したり、その後、症状が快復したりということが多くある。

 取材をしていて、そういうケースが数多くあるため、私は、付き合いのある介護会社の社長に、デイサービスなどに「撮影会」を取り入れるのはどうだろうかと進言した。老人のなかには、他者から見つめられない、つまり無視されることで、急速に惚け、心を閉ざしている人がいるが、誰かから注目され、真摯な眼差しを受けることで、自分の中の何かが活気づき、その人自身が、ゆっくりと目を覚ますということが実際に起こるようなのだ。

 いずれにしろ、少年少女に限らず、今日の社会に傷つけられる人は多くいるのだが、その社会は、社会を構成する一人一人の人間が作ってきたし、今もまたそうだから、政府や官僚の責任を追及したところで何も変わらない。一人一人の人間が何かしら変わっていかなければ、どうにもならない。変わるといっても、何か特別の知識や技術を身につけるということではなく、眼差しを変えるということ。一人一人の眼差しが変わることが、世の中を変えるかもしれない。その眼差しの変え方は、論理的に説教してもダメで、具体的に実行し、示していかなければならないのだろう。社会を構成する一人一人は、自らが置かれた現実生活において、それを実行し、表現者は、具体的な作品を通して、それを示していく。

 空疎な楽観主義ということではなく、一切の既成概念を排除し、ただひたすら目の前にあるものの本来の姿を見つめ、引き出そうとするまなざし。それ自体によってそこに存在するものを見つめ肯定することでしか、間接的情報で曇らされ、見失った明日への路は、見えてこないのではないか。

 「渋谷」は、フィクションなのか、ノンフィクションなのかという意見もあるだろうが、そうした分別は、各種の表現や学問が「リアリティ」から遠くなったゆえに生じるものであって、「リアリティ」という本来の場所に立ち返れば、どうでもいいことだ。

 「写真」の場合も、フィクションかノンフィクションか、アナログかデジタルか、というカテゴライズされた表層の議論が多くなるが、そういう議論にかまけている暇があったら、「リアリティ」に向かって必死に足掻くということの方が大切なのだろう。

 そういう意味で、藤原さんの「渋谷」には、そこに描かれている少年少女の現在という細部と、私たちのこの60年がいったい何であったのかという大きな全体において、「リアリティ」を感じることができた。

 その「リアリティ」は、決して、現状把握という程度のことから生じるものではない。

 「リアリティ」というものには、深い啓示が秘められている。今切実に求められるべきモノゴトの在り方や方向性などが、祈りに似た感覚で伝わってきてこそ、人は、リアリティを感じる。現在や過去を分析するだけではダメで、現在と過去と未来が一緒になって迫ってきてこそ、リアリティ=現実性 なのだと思う。



風の旅人 (Vol.20(2006))

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